旅の回顧録~1993年のカンボジア(15)

カンボジアでリゾート?

1993/3/27 Sat

AM4:30,起床.
隣のベッドの日本人に,タケオ情報を聞きつつ荷造りをする. 
便意に襲われ,トイレにあたふたと駆け込む.久々の快便であった.腸の機能は回復しつつあるようだ.

「Inn house」をチェックアウトし,もう2度と利用することはあるまいと思っていたプノンペン駅にY氏,大前田氏と3人で向かう.そしてコンポンソム行の列車(今回はショベルカー運搬車!)に乗り込む.

AM7:00,出発.
いつもながらスタート時は心地よいカンボジア鉄道の旅.やがて南部方面へ線路が分岐する.しばらく進むと永野護がデザインしたかのような純白で繊細な寺院がジャングルの中にそびえていた.実に美しい.

やはり暑さはやってくる.ショベルの中に身を隠すも焼け石に水.あまりの暑さに意識が朦朧としてきた.

途中で何度も列車の連結,切り離し作業が行われる.このため到着時刻がどんどん遅れていく…それにしてもやなぁ,駅の切符売り場のおっさんは昼の2時には着くと言うてたで,なんでや!

Kazchari達の乗っていた運搬車両もとうとう切り離された.もはや扉の閉じた貨物車しか残っていない.屋根にも上れず途方にくれていると,機関士が声をかけてくれ,運転席に乗せてもらうことができた.

身体が疲れきっていたので,質問などに生返事していたにも関わらず,弁当やお茶をくれ,しまいにはコンポンソム駅の職員用宿舎に泊まれと言ってくれた.感謝感謝.クメール人は誠に親切である.

PM7:30,ようやくコンポンソム着.

機関士に別れを告げ,群がるバイクタクシーを振り払い,Y氏がドイツ人から聞いたという安ホテルを探して2キロ程海岸沿いを歩く.

キーポイントとなるレストランを発見.なんでも,ここの主人が空き家をゲストに開放しているらしい.そこでタイ製インスタントラーメンの夕食をとる.TVでは懐かしの『Take On Me』のMTVが流れていた.何か意味深.

ゲストハウスまでくるまで送ってもらう.一泊US$5のベッドにようやく落ち着く.
この宿,電気はあるが水道はない.外の大甕にたまった雨水でカラダを洗うシステム.一人旅のアメリカ人女性が,先客として滞在していた.(その16へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(14)

1993/3/26 Fri

朝,日本大使館へ.
昨日増ページを頼んでおいたパスポート(*1)を取りに行く.
なんと15000リエルであった.日本円で350円ほど.2000円程度かかると聞いていたけれど,実際はその国の公定レート(*2)に合わせているようだ.

道端の屋台にてボリューム過多のサンドイッチ朝食(*3).はさんであるパパイヤサラダ(*4)にはアリがたくさん混じっている.これでタンパク質補給も問題なし.

「Capitol」のレストランで旅行者と話したり,洗濯(*5),読書(*6)をして一日を過ごす.

作家を目指しているというY氏の日本語文法論(*7)にいちゃもんをつける.Kazcahriがまるで「わかってないヤツ」のように言われたのでムカついたのだ.どうでもいいことなのだが,あまりにヒマ過ぎてストレスがたまっているのだろうか?

そこへラオスのヴィエンチャンから飛んできた日本人夫婦(*8)登場.ラオスでは,なんとジャール平原(*9)に行ってきたそうな.

明日のコンポン・ソム(*10)行きは検討の結果,またもや列車で行くことになりそうである.雨が降らなければよいのだが.

「Inn House」に戻ってベッドに寝そべっていると,知り合ったばかりの日本人旅行者にプノンペンの売春街「70番」に行かないかと誘われる(*11).
もちろん断る.さっぱりわからん.倫理的うんぬんより,病気,強盗,拉致などの恐怖感が先行する.

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*1:このパスポートはその後盗まれてしまい,ウィーンで発見されることになる.中国系犯罪者が使っていたらしい.
*2:レートはいつもクセモノ.よく知らないと大損する.例えば94年当時,ミャンマーでは公定:US$1=6チャットだが,闇:120チャットだった.
*3:店によって大きさ,味に違いがある.パンが異常に固い点は共通.
*4:タイでは「ソムタム」として有名.うまいことはうまいのだが,沢ガニ入りの時もあり,寄生虫がやや心配.
*5:バケツに洗剤を入れ,汚れ物を2~3時間つけておく.その後2回ほどすすいで干す.水不足の国だと宿の主人に怒られたりする.外干しだと乾きは速いが,扇風機による強制乾燥だとさらに速い.
*6:安宿がかたまる地域では,たいてい古本屋がある.日本語の本では,軽く読めるミステリ系が多い.割と高い.読んだ後は半額で引き取ってくれるところもある.
*7:旅に出ると誰もが評論家になる.ただし長期旅行者にはアクが強い人物が多いので,論争になると収拾がつかなくなることも.
*8:夫婦や恋人で貧乏旅行している人は意外に多い.話を聞くとかなり大変らしい.何しろ互いに気をつかうそうな.
*9:93年当時,ラオスは国内の自由旅行をほとんど認めていなかった.ただしお金を払ってのツアー参加ならOK.古都ルアンプラバン・ツアーがメジャーだが,ジャール平原も興味深い.謎の巨大石壺がゴロゴロ転がってるミステリーゾーンである.
*10:別名シアヌーク・ビル.フランス人が開発したリゾート地.
*11:US$5~だそうな.日本人旅行者に人気の娘がいて,「Capitol」でも話題になっていた.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(13)

1993/3/25 Thu

AM7:00から8:00までをまどろみの中で過ごす.

起床後,我が愛しの赤いパスポートを取りにベトナム大使館まで歩く.ついに手に入れたベトナムヴィザには入国可能ポイントが3ヶ所も書いてあった.

屋台でサンドイッチを買い,「Capitol」 のレストランでアイスコーヒーを頼む.うまい.夢見ていた朝食である.

そこへ大前田氏登場.海岸行きを断って,明後日ベトナムに抜けます…と言うつもりが,あの人の前に出るとなぜか不思議な力が働いて(途中で自衛隊駐留地のタケオにも寄るという話が効いたか?),海岸行きが決定.カンボジアヴィザの再々延長をすることになってしまった.

バイクタクシーをつかまえてイミグレーションに行ってもらおうとするが,ホンマに運ちゃん,プノンペンの地理がわかっていない.まぁ,現地民や普通の観光客がそうそう行くところではないのだが…散々寄り道された挙句,AM10:40,ギリギリでヴィザ申請に間に合った.

「Inn House」に戻った後,大前田氏と銀行経由で郵便局へ.タイ資本の銀行にて,T/C US$300をキャッシュに換えた(US$294 GET.手数料高い).
郵便局では3人に絵はがきを発送。全部で1300Rであった.

帰り道.中央市場にて「中華風ぶっかけメシ」を食う.やはり地方よりプノンペンの方がうまい.ついでにガラスケースに札束を並べた青空両替所にて,おばちゃんとレートの交渉.明るい「闇チェン」である.US$10が55000リエルになり,バッグが札束だらけになった(インフレ途上国あるある).

「Capitol」のレストランはすっかり旅行者のたまり場となっている.
有益な情報,ウソの情報,ヤバイ情報,何でも飛び交っている.退屈はしない.

夕食後も居座り続けてだべっていると,突然銃声が響いた.すぐ裏の路地らしい.野次馬根性で見に行くと,黒人のUN兵が拳銃を空に向けて構えていた.一目で酔っているとわかる.現地住民が取り囲み,彼をなだめていた.

旅が長くなると忘れがちになる.ここはけっして安全な場所ではない.(その14へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(12)

あの列車に再び乗る.

1993/3/24 Wed

AM5:00,起床.まだ真っ暗なバタンバンの街を駅に向かう.
例の商店に再訪できなかったのが悔やまれる.

切符を買って,どこに乗り込むかを検討.今度の列車には客車が一台も連結されていなかった…

結局,UNTAC車両の運搬貨車に“座る”ことにした.積んであるランドクルーザー,どこかで事故ったのか,もしくは地雷を踏んだのか,前部がクラッシュしていた.

途中の襲撃,強奪を恐れてか,武装したフランス人UN兵が一名,護衛に付いている.「ここに乗ってもいいか?」と尋ねるとOKという返事.一方で現地の人間の乗り込みは拒否していた.

AM7:00,発車.前回より速度が上がったような気がする.各駅での停車時間も短い.これは意外に早くプノンペンに着くかも…と楽観したのが甘かった.

昼に近づくにつれ,気温も急上昇.日差しもきつくなる.Tシャツ泥々,肌ベタベタ.車両運搬車なので,身を隠すスペースは何もない.まさに灼熱地獄.さっきのUN兵に,ランクルの運転席に入らせてくれと頼んだが,許してくれなかった.
帽子,タオルで日差しを防御.座ってる鉄板ももちろん暑い.水をガブ飲みしつつ,タオルをひいて横になりまどろむ.

やがて腹具合がおかしくなる.Big-oneの欲求である.列車が一時停車したのを見計らって貨車を飛び降り,草むらに飛び込もうとすると,UN兵が「NO!」と叫ぶ.彼が指す方向には,しっかりと,あの赤い「DANGER MINE」標識が乱立していた…

仕方なく貨車の上で顔面蒼白,冷や汗タラタラでさらに我慢す.こうなったら最後の手段である.2台並んだランクルの間にしゃがみこんで,ビニール袋のなかにする…ホッと一息ついた頃,人混みの駅に列車が入っていった.

PM3:00を過ぎるとさすがに過ごしやすくなる.やがて日が暮れた.

遠くに見える“大都市”プノンペンの明かり.さぁ,もうすぐだと思った途端,いきなり大砲が3発鳴って急停車.襲撃か!と思いきや,機関部の故障であった.

待つこと2時間,ようやく発車.プノンペン着はPM9:00であった.

大前田氏,Y氏,Kazchariの3人は「Capitol」目指して大通りを歩く.疲労のため全員一言もしゃべらない.
そこへカンボジア人の警官が3人寄ってきて,パスポートを見せろだの,荷物検査をさせろだのと,たわけたことをぬかしやがる.どうせ賄賂目的.ただでさえ空腹でイラだっている日本人3人組は,ムカムカして逆にくってかかり,要求は無視してその場を立ち去るのであった.

「Capitol」が満室だったので,近くの安宿「Inn House」のドミ(US$5)に落ち着く.鏡に映った自分の姿を見て,なぜ警官に職質されたのかがわかった.(その13へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(11)

アンコールの街,シムリアップを去る.

1993/3/23 Tue

朝,市場にてバタンバン行きのタクシーを探す.
なかなか見つけることができず「Sunrise Guest House」を出発した時にはAM8:00を過ぎていた.

今度のタクシーは運転手,大前田氏,Y氏,Kazchari,知らない現地人2人の6人乗りで往路時よりせまい.おまけに“ハズレ”のくるま.エンジン不調で途中に何度も止まる.

UNTACの白車両に次々と追い抜かれる.このままでは,いつバタンバンに着くのか予測がつかない.UNTACをヒッチすることまで考えた.

砂埃にまみれつつもPM1:00頃,ようやくバタンバン着.前回同様「23 TOLA HOTEL」に部屋をとる.

荷物を置いた後,数日前に家族写真を撮った雑貨屋に行く.シャッターが下りていた.
一人で街を散策する.カンボジア第2の都市といえど,あまりに寂しい街.新築のホテルの他は,同じような形の黄色い壁の家が並ぶ街.

市場にて,不味いぶっかっけメシを食べながら,ここ数日の体調不良の原因を考えてみる.もちろん無理なスケジュールが主因だろう.しかし,プノンペンはともかく地方に行くと,カンボジア料理が口と胃に合わなかったというのも理由の一つに違いない.世界に冠たる料理王国,タイ&ベトナムにはさまれた国なのに,なぜ?

準戦時下のこの国では,新鮮な食材があまり豊富でないからだろうか?
もともとこの辺りのメコン沿いの国々に「餓死」という単語は存在しないという話だが…何しろメニューの幅がせまい.早くプノンペンへ(本音を言うとタイへ!)戻りたい.

宿代ケチってUS$10の部屋に3人で寝る.ベッド2つをくっつけて.
エアコンなしの部屋,ムシ暑い夜.Y氏持参のCDプレーヤーからは香港ポップスが流れ続けている.(その12へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(10)

1993/3/22 Mon

本日も腹痛と頭痛で目が覚める.ここ数日,体調極めて悪し.大事に至らねばよいが…

寝ぼけた頭で過去のことをいろいろと思い出す.子供の頃のこと,学生生活,3年間の会社(というより沼津)での生活がなつかしい.そして…
頭蓋骨の裏側にへばりついた,これらの記憶に触れようともがく.刻の流れを痛覚としてとらえる.弱気になる.フリーになると規律が,ルーチンな生活には自由が恋しくなる.今はフリーの時期で不安.人には枠が必要か.

以前少し考えたこの後のカンボジア海岸旅だが,どうも大前田氏のアクの強すぎる性格についていけなくなってきている.Y氏も同様のことを考えているようだ.そもそも個人旅行者同志が長期間,団体で旅することに無理がある.
さて,どうしようか…

「Sunrise Guest House」の住人たちは日がな一日TV(香港映画?)を観てるか,床の掃除をしている.

御主人は Mr.キムという中国系の方である.もの静かな感じで諦念観漂う人.英語を話されるので,あの大虐殺の時代をどう過ごしたのか聞きたかった.でも,聞けなかった.聞いてはいけないのかもしれないと思った.

夜,Mr.キムは月明かりの下,一人,玄関でラジオを聴いている.耳をかたむけるとそれは日本語の放送だった.なぜだろう?

Mr.キムには20歳ぐらいの娘がいる.「へい,むわすたぁ~」というやたら低音の声でシンプルな英語を話す.そういえばプノンペンでも話題になってたなぁ,この娘…

また,この家には猫,それも子猫がいる.おかげで一日宿にいても,さほど退屈せずに済んだ.猫好きならわかるやんな?

Y氏がクメール文字の分析をしているのを横で眺めていたら,Kazchariも段々と興味がわいてきた.タイに戻ったら文字の表記と発音をきちんとやってみようと思う.

ちなみにKazchariの名前はクメール文字で,□□□□ □□□zu(注:□はクメール文字)となる.“zu”という発音は存在しないのだ.

このパズルに熱中していたおかげで,行きつけのレストランの閉店時間が過ぎてしまった.夜の町を歩いて,ようやく見つけた屋台には“ニラもち”しかなく,仕方なくそれを食う.味は悪くない.でも今の体調にはHeavyだ.(その11へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(9)

1993/3/21 Sun

AM5:30,起床.
微熱と頭痛が少し残るものの,昨日よりはずっと調子が良い.
クンツが飛行機でプノンペンに戻るので,空港まで彼をトランスポートする.
生死を共にした(?)ナイスガイであった.見た目老けてるけど.

その後,Y氏と大前田氏が見つけたという新ルートを通って,再びアンコールに行くことにした.
空港脇をさらに西に進み,草原の真ん中を突き抜ける砂地を爆走する(一昨日の出来事に全然懲りてない).

やがて,ゲリラが出てきても全然おかしくない雰囲気のジャングルに侵入.
サンダルに半パンというスタイルだったので,満足に“攻める”ことはできなかったが,実におもしろいオフロードコースである.
そして偉大なる日本の名車,カブに乾杯!
ホンマによく走る単車だ.

アンコール・トム,バイヨンの西門に到着.
ここは他の門と違い,ジャングルの中にツタがからんだ姿でそびえ立っている.
まるで,自分が最初の発見者になったかのような気分.

と,ここでトラブル発生.
昨日はいなかったという門番が今朝はいた.
小銃を持った政府軍の兵隊であった.
US$1をつかませて通してもらう.
なんだか悔しいぞ.

トム見学後,体調もそれほど悪くなかったので,アンコールのさらに北21kmにあるという遺跡「バンテンスレイ」へ行くことにする.
これまたスゴイというか,発展途上的というかの凸凹道.
雨でできた池がボコボコ存在する.
ダート好きの俺はまた,キャッキャと走り抜けるのであった.
途中,ロケットランチャーなどの重火器を構えてカブに乗る兵隊と何度もすれ違う.
遺跡まで1kmという地点で,Kazchariのカブがガス欠.
仕方なしにすぐそばの民家でペットボトル入りのガソリンを買う.
2リットルでUS$2! なんだってーっ!

ようやくたどり着いたバンテンスレイは掛け値なしに素晴らしい遺跡であった.
アンコールの他のどの遺跡よりも保存状態が良く,緻密な彫刻が見る者を圧倒する.

もちろんここも周囲は「DANGER MINES」の標識だらけ.入り口にはロケットランチャーを持った政府軍兵士が見張っており,「絶対に石道の外に出るな」と忠告された.

帰り道,アンコール遺跡全体を見渡せる山に登る.
おそらく2度はないだろうと思う風景を心に刻む.
今,自分は確かに存在している.

明日は休息日の予定.
少し離れた最後の遺跡「ローラス」も訪問.

疲れた.

しかしながら充実した一日であった.
各々の遺跡の素晴らしさを文章で表現するなんて器用なマネはでけんので今日の日記はここまで.

あぁ,また少し頭痛がしてきた…

旅の回顧録~1993年のカンボジア(8)

旅先での病気ほど不安なものは無ひ.

1993/3/20 Sat

昨夜は39℃の熱が出た.

幸い,この「Sunrise Guest House」には安宿にはめずらしく冷蔵庫がある.
薬を飲み,凍らせたミネラルウォーターのボトルを頭に押しつけ,懸命に熱を下げる.
体力をつけねばと思い,サンドイッチとバナナを腹に詰め込む.
明け方,ようやくこの日記が書けるまでには回復した.

今日は全く動けない.
カンボジアからの手紙を友人に出そう.

ここは地の果てカンボジア
照りつける太陽
ハエが飛ぶ飛ぶプノンペン
国中暴走 UNTAC
足の無い人うーじゃうじゃ
一雨来ればゴキブリ,ネズミがゾーロゾロ
飛行機ケチって列車に乗れば,屋根にしか座れない
人類の至宝アンコール,拝観料70ドル,払うが嫌さに抜け道行けば,“地雷危険”の標識あり
昨日は1ドル=2900リエル,それが本日5800リエル.
下手な両替バカをみる
こんな場所でも住めば都のカンボジア
私の旅はまだまだ続く

と,病明けのとち狂った頭で考えた文章を数名に送ることにした.
今,熱をはかると37℃.
マラリアではなかったようだ.

明日は再び,アンコール遺跡を見にいく予定である.
(その9へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(7)

カンボジアの通貨はリエル(R).
昨日はヤミでUS$1=2900Rだったのが,今日は5800R…

1993/3/19 Fri(続き)

穴の状態から推測するに,ごく最近爆発したのは明白である.

クンツは「俺はまだ21歳だ! 死にたくない!」と泣きそうな声を出している.

なぜかすっかりハイになっていたKazchariは「何言うてんねん!あとちょっとや! それに俺らは男やないか! Let’s Go!」とわけのわからないことを叫ぶ(不思議な事に興奮すると英語が流暢になる).

めちゃめちゃである.

この時,Kazchariの脳内では特撮オープニングのアレ,そう,猛スピードでバイクが通り過ぎた後に後方で爆炎があがる,あのシーンが再生されていたのは言うまでもない(んなアホな).

が,クンツ動かず.
やがてKazchariの興奮もだいぶ収まり,状況を冷静に考える余裕が出てきた.

「足1本とUS$70か…ちょっとなぁ…よし! クンツ,戻るで!」

クンツ,ホッとしたような表情.
二人してカブにまたがったまま,タイヤの跡をなぞりつつ後退する.
おっとその前に,穴とカブとKazchariを被写体に,クンツに写真撮影を頼む(前回の写真).
さぞかし“変なヤーパン”と思われたことだろう.

帰り道,UNTACの工事現場近くを通ると,敷地から小銃を持った兵隊が飛び出してきた.
一瞬「まさか,ポルポト…」と恐怖に駆られたが,水色帽子のUN兵であった.
呼び止められ,パスポートの提示を命じられたが,Kazchariのはベトナム大使館に預けたまま.
つまり,コピーしかもっていない.

で,少々もめたがなんとか信用してくれた.
話を聞くとただの工事現場ではなく,案の定,地雷処理班の駐屯地であった.
「この辺はマジで危ないから,舗装路以外は走ったらあかん」と注意を受けて解放.
ご迷惑をおかけ(したかも)申し訳ありません.

結局,強行突破に失敗した最初の料金所まで戻る.
渋々カネを払おうとすると,係員が料金リストを出してきた.
実は入場料US$70というのは遺跡全部を見学した際の値段.
何のことはない,一つだけならUS$13でよいのだ.
これなら全然たいした額ではない.
ましてや足1本とは比較にならない.
プノンペンで仕入れた情報って…口コミ旅あるあるやな.

ゲートをくぐり,ようやくアンコール・ワットとご対面.

刻すでにAM6:30!
苦労した甲斐のある荘厳な姿が観れて大満足であるが,曇天の中そびえ立つ寺院は思っていたより小さかった.

本堂に近づくにつれ,その傷み具合というか,すり減り具合がよくわかる.
かつてここに大勢の人が住んでいたとは想像しがたい.

先行の日本人2人と合流.
3時間あまりの冒険談を話す.
よく無事でいたもんだ.

が,実はこの時,病魔はすでにKazcahriのカラダを深く蝕んでおり,ガンガン頭痛はするわ,前後感覚がおかしくフラフラするわで,せっかく訪れたアンコールをじっくりと見学できる状態ではなかった.
全ては夢の中の出来事だった様.

一通り城壁のレリーフを見物した後,入場料を払うことになったKazchariとクンツに,大前田氏が屋台ラーメンとコーヒーをおごってくれた.

健康状態はますます悪化していくものの,せっかくだからとアンコール・トムにも向かう.
途中チケットのチェックゲートらしき物があったが,誰もいなかったので気にせず通過.

トムの壁面,“クメールの微笑”にもようやく対面することができた.
こちらの方が好みの造形.
気分はすっかり「地獄の黙示録」か「ボトムズ・クメン編」.
実に良い(体調以外は).

他の小さい遺跡群も,カブをとばしてざっと見学.

昼近くになり日差しが強くなってきた.
もう一人では立てないほど衰弱していたので,クンツに宿に戻ってくれるよう頼んだ.
それからは…
(その8へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(6)

AM3:30,起床.
ここ数日の無理な旅程がたたってか,ノドが痛く,頭痛,寒気がする.
しかし,ここまで来てアンコール・ワット見物をやめるわけにはいかない.

1993/3/19 Fri

いよいよアンコール・ワット見物に行く.
ツアー参加者であればワゴンで昼間にゆっくりと“安全に”見学できるのだが,バックパッカーにその様な贅沢は許されない.
できるだけ早朝に宿を出発し,料金所の係員が寝ている間にゲートを突破するのだ.
“足”はもちろん「愛知県警」の名前入りスーパーカブである.
昨日のうちに1日US$5でレンタルしておいた.

体調が不安なものの出発する.
カブは計4台.
Kazchariとクンツの日独コンビ,Y氏と大前田氏の日本人組,残りは同宿の2組の白人グループである.

体格差を考慮し,クンツが運転する.
まだ暗闇の中を4台のカブが遺跡に向けて疾走する.
地図に記載されている料金所があるという2本の道のうち,細い方に進路をとる.

料金所のゲートが見えてきた.
が,その瞬間,カブのエンジン音に目を覚ましたのか,料金所係員が数人外に飛び出し,上がっていたゲートを降ろそうとする.
先行していた日本人組と白人1組はゲートをすり抜けることができたが,われわれ日独コンビと,もう1つの白人組は係員に捕まってしまった.
ズルはできないものである(反省).

近寄ってきた係員が眠そうな顔で,入場料US$70(高い!)を払えと言う.
白人組は首を振ってカブをUターンさせた.
もう一ヶ所の料金所に向かうようだ.

われわれも道を引き返すことにしたが,料金所突破はあきらめ,プノンペンで会ったK氏に教えてもらった,料金所が存在しないという“裏ルート”を目指すことにした.

本道からワキ道に入る.
情報通り,UNTAC 車両が停車する工事現場(だと思っていた)を発見.
「この道や」と確信しさらに進む.
しばらく走ると舗装がとぎれてダートになった.

道はますます細くなる.
あぜ道のようだ.
左右は雑木林.
もちろん人家は見えない.
やや不安を感じつつも,さらに前進…だだっ広い野原に出た.

前方には森があり,その向こうには…アンコール・ワットの尖塔が見えるではないか!
その距離,残り約 300メートル!…と,しばらく進んだ後,急にクンツがカブをストップ.

「なんや?クンツ,どないした?」と尋ねると,クンツが硬直している.
ふと,周りの地面を見ると,黒焦げの草や粘土層むき出しの新しい穴がボコボコ開いている…通り過ぎてきた道,つまりカブの後方にもいくつか…ある.
さらに,進みべき前方には穴が無く,平らな地面が続いている.
この状況が意味するのはただ一つ…

われわれ日独コンビは “DANGER MINES ZONE”,つまり地雷原のまっただ中にいたのだ.
(その7へ)