旅の回顧録~1993年のカンボジア(6)

AM3:30,起床.
ここ数日の無理な旅程がたたってか,ノドが痛く,頭痛,寒気がする.
しかし,ここまで来てアンコール・ワット見物をやめるわけにはいかない.

1993/3/19 Fri

いよいよアンコール・ワット見物に行く.
ツアー参加者であればワゴンで昼間にゆっくりと“安全に”見学できるのだが,バックパッカーにその様な贅沢は許されない.
できるだけ早朝に宿を出発し,料金所の係員が寝ている間にゲートを突破するのだ.
“足”はもちろん「愛知県警」の名前入りスーパーカブである.
昨日のうちに1日US$5でレンタルしておいた.

体調が不安なものの出発する.
カブは計4台.
Kazchariとクンツの日独コンビ,Y氏と大前田氏の日本人組,残りは同宿の2組の白人グループである.

体格差を考慮し,クンツが運転する.
まだ暗闇の中を4台のカブが遺跡に向けて疾走する.
地図に記載されている料金所があるという2本の道のうち,細い方に進路をとる.

料金所のゲートが見えてきた.
が,その瞬間,カブのエンジン音に目を覚ましたのか,料金所係員が数人外に飛び出し,上がっていたゲートを降ろそうとする.
先行していた日本人組と白人1組はゲートをすり抜けることができたが,われわれ日独コンビと,もう1つの白人組は係員に捕まってしまった.
ズルはできないものである(反省).

近寄ってきた係員が眠そうな顔で,入場料US$70(高い!)を払えと言う.
白人組は首を振ってカブをUターンさせた.
もう一ヶ所の料金所に向かうようだ.

われわれも道を引き返すことにしたが,料金所突破はあきらめ,プノンペンで会ったK氏に教えてもらった,料金所が存在しないという“裏ルート”を目指すことにした.

本道からワキ道に入る.
情報通り,UNTAC 車両が停車する工事現場(だと思っていた)を発見.
「この道や」と確信しさらに進む.
しばらく走ると舗装がとぎれてダートになった.

道はますます細くなる.
あぜ道のようだ.
左右は雑木林.
もちろん人家は見えない.
やや不安を感じつつも,さらに前進…だだっ広い野原に出た.

前方には森があり,その向こうには…アンコール・ワットの尖塔が見えるではないか!
その距離,残り約 300メートル!…と,しばらく進んだ後,急にクンツがカブをストップ.

「なんや?クンツ,どないした?」と尋ねると,クンツが硬直している.
ふと,周りの地面を見ると,黒焦げの草や粘土層むき出しの新しい穴がボコボコ開いている…通り過ぎてきた道,つまりカブの後方にもいくつか…ある.
さらに,進みべき前方には穴が無く,平らな地面が続いている.
この状況が意味するのはただ一つ…

われわれ日独コンビは “DANGER MINES ZONE”,つまり地雷原のまっただ中にいたのだ.
(その7へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(5)

ここはまだ戦場(らしい).

1993/3/18 Thu

AM5:00,起床.
トイレに行く.
尿が濃い.
もしくは少量血が混じってるような気がしないでもないが,アンコール・ワットへ向けての最後の難関,6時間のタクシーツアーを決行する.
ホテルを出,市場の前でたむろしているタクシーと交渉.
一人US$5でシェアすることができた.
運転手+我々旅行者4人+現地人1名がくるま(カローラバン?)に乗り込む.

出発後しばらくは道路もキレイで快調にとばしていたのだが,途中でパンク.
その修理のため小さな村で朝食をとる.
カンボジア名物クイニョン(ソバ)を食べた.
ほとんど溝のないタイヤを,これまた同じような状態のタイヤと交換.
その修理用工具も廃車のピストンを利用したものだった.

牛車や馬車も走るカンボジアの田舎.
白地に黒マークのUNTACトラックの数も増えてきた.
平原の真ん中で,UNの検問.
装甲車には機関銃を構えた兵隊が立っていた.
自動小銃を持った兵隊がくるまをのぞき込む.
おおっ,まるで戦争映画みたいや.
Kazchari一行はフリーパスだったが,付近で何かあったのだろうか?

道はますますひどくなる.
未舗装+ところどころ陥没していて,それらを避けながら走るため,非常にノロノロ運転である.
外の風景はまさにケニアのサファリ.
360度の地平線である.
アフリカまで行かなくても,近場にこの様な素晴らしい所があったのだ.

何度かウトウトしているうちにAM11:30,シムリアップに無事到着.
事前に仕入れた情報で評判の高かった「Sunrise Guest House」にチェックインする.
何とも凶悪な趣味(真っ赤なシーツにピンクレースの蚊帳付きベッド)の部屋だったが,クンツと一人US$3でシェアできたのと,とりあえずシャワーが浴びたかったので妥協する.
清潔さに問題はない.

シャワー後,4人で市場に昼食に行く.
どうでもいいが,このクンツ,屋台などの「得体の知れない食べ物」が食えない典型的な西洋人であった.
朝からバケットしかかじっていない.
大丈夫か?

昨日より同行しているO氏,いやあえて「大前田氏」と呼ぶ.
日本を出て10ヶ月になるそうだ.
いやはや,その旅のすさまじいこと.
山が好きで,今回の長旅の目的はエベレスト登山のベースキャンプまで行くことだったらしく,それはすでに達成済.
その他,個人旅行を認めていないブータンに密入国するルートなど,おもしろい話をいろいろと聞く.
また,この大前田氏,自称「めちゃめちゃ喧嘩っ早い」そうで,中国の未開放地区で民間人と何度も殴り合った経験があるという.
うーんスゴイ.
よく生きてるもんだ.
大前田氏はプノンペンに戻った後,カンボジアの海岸にも行く予定とのこと.
で,一緒に行くことを考えた.
ただし,海岸部はいまだにポルポト支配下なので“マジで”やばいというウワサもある.

市場にはバングラデッシュ人のUN兵がたくさんいた.
その中の一人がドル札をヒラヒラさせて,ビールをおごってやるから,そこのテーブルに座れと言う.
で,わけのわからん愚痴を聞かされつつ飲んでたら,最終的にその兵隊の分の料金まで払わされそうになった.
えーい,貴様はインド人か!(ハズレてはいない).

どうやら,バングラデッシュとかガーナ隊が,手当のより良い最前線で働いているそうな.
この彼の月給はUS$800.
命がけの出稼ぎかもしれない.
(その6へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(4)

列車の旅が、良い

1993/3/17 Wed

AM4:00.起床.簡単に荷造りしていると,隣のベッドの西洋人も起きた.
「バタンバンに行くのか?」
「ああ」
「ついてっていいか?」
ドイツ人,クンツが仲間になった.

AM5:00.プノンペン駅.
電灯がついておらず,真っ暗な駅で途方にくれていたところ,タイ語を話す僧侶を発見.
チケット窓口やらプラットホームの番号を教えてもらう.
うーむ,しかしこちらから「プーツ パーサ タイ ダイ マイ?(タイ語を話すか?)」なんて尋ねるようになるとは,我ながら成長したものである.
この坊さん,タイ-カンボジア国境の街,アランヤプラテートまで行くらしい.
外国人には許可されていないが,僧侶は陸路で国境を越えることができるのだ.

列車がホームに入ってきた.
待ちくたびれた人々が群がる.
しかし,7両編成の列車のうち,客車の数はわずかに2両ほど.
他は貨車やら家畜輸送車両である.
つまり全員が客車に乗るのは不可能.
実は僧侶に話しかけて「トモダチ」になったのは理由がある.
思惑通り,人々は僧侶に席を譲る.
それに便乗してクンツと2人,席を確保できた.
くっくっく.計算通り!

客車に入りきれなかった人はどうするのか?
列車の屋根に登るのである.
窓から見える景色がすばらしい.
草原-森-草原と変化に富む.
村落内を通る.
一見,牛車を引いた人が歩くのどかな風景なのだが,その村には「DANGER MINE!(地雷危険)」と書かれた赤い立て札があちこちに立っていた.

水程度しか持参しなかったのだが,意外に食事には困らない.
列車が停まると,地元民が飲み物や串焼き(ビーフ!),果物をカゴを下げて売りにくる.
中でも「蜘蛛の姿焼き」に驚愕.
タランチュラサイズの蜘蛛の脚を1本づつちぎって食べた後,黒い団子状になった胴体部にかじりつくのである.
さすがにこれは食えなかった.

PM4:00.試しに屋根に上がる.
この時間になると車内よりはるかに涼しい.
それにすばらしい眺めである.
世界屈指のワイルド路線でないか.
何人か旅行者らしき者もいた.
「Capitol」で会ったY氏が,日に灼けて真っ赤な顔で座っていた.
下痢が治りたてなのに大丈夫なのか?

PM6:00.終点バタンバン駅着.
駅から少し歩くとホテルだらけである.
しかも新しい建物が多い.
アンコール・ワット観光が(一応)できるようになってから建てられたのだろうか?
結局「23-TOLA HOTEL」 のツインをクンツと一人US$5でシェアすることにした.

夕食は駅前の屋台街へ.
ひさしぶりの「ぶっかけめし」と...てっきりゆで玉子だと思って手にした,インドシナ名物「もう生まれるんですタマゴ」もしくは「半熟ひよこタマゴ」を初めて食す.
コリコリとした舌触りがなんとも...珍味である.

帰り道,とある商店のテレビにニュースが映っていた.
情報収集しようと画面を観ていると,その店の人たちがイスを薦めてくれるわ,お茶をくれるわ,商品のミネラルウォーターをくれるわでさぁ大変.
タイ語を解するじーさんとコミュニケーションをとる.
日本で働いているという息子の写真を見せてもらった.
23日にまた来ると約束し,家族全員と固い握手.
すごく単純なことだけど,不思議に感動して泣いてしまった.
「これだから旅はやめられない」とつぶやきつつ,ホテルに戻る.

KazchariとクンツとY氏,それに同じホテルに泊まっていた日本人のO氏と4人で,明日タクシーをシェアし,アンコールの町,シムリアップに行く相談をする.
(その5へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(3)

タイ語とラオス語は東京弁と大阪弁ぐらいの違いしかないが,タイ語とクメール語では東京弁と鹿児島弁ぐらいの差がある.- だから?

1993/3/16 Tue

この時期のカンボジアの夜はさほど暑くはない.
ただし一晩中響きわたる騒音(自家発電器のモーター音)と,昨日のツールスレーンの光景が頭から離れなくて2~3時間しか眠ることができなかった.

さらにドミトリーの部屋で一番困る事態が発生.
そう扇風機の直撃である.
他人が強風で回しているのを止めるわけにはいかんし...で,朝から風邪気味で鼻ずるずるである.
白人の連中は裸で寝てて寒くないのか?

午前中,プノンペン市内を北に向けて歩く.
おっと,その前に朝食で念願のフレンチ風サンドイッチを食べたことを書かねば.
具(焼き豚と野菜)が山盛りで1000リエルであった.
ラオスで食べたのとよく似た味である.
旧植民地と言えども,本場(?)のフランスパンなので,咀嚼するとアゴが非常に疲れる.

ドーム型の巨大な建物,セントラルマーケットに行く.
中は典型的なアジア市場.
生鮮食品,金物,陶器,服屋の他,札束をガラスケースにわんさか積んだ貴金属屋さんが目立つ.
ついつい銀(っぽい)ネックレスをUS$5で買っちまった.
野外ではサル,ウサギ,オウム,インコ,タガメ,そしてアリクイetc…を売っていた.
ペットショップでないことは確かである.

明日乗る列車の時刻表でもあるかと思い,駅に向かう.
構内がひんやりと涼しいのでベンチでボーッと座ってたら,周囲にカンボジアのオヤジ達が集まってきて,じろじろ見よる.
なんだか居心地が悪くなってきたので駅を退散.
悪意は感じなかったが,まだまだ個人ツーリストがめずらしいのだろうか?

展望を期待して丘の上にあるお寺に登る.
カンボジアもタイやラオスと同じ小乗仏教.
光り輝くネオン・ブッダのお出迎えであった.

「Capitol」に戻る.
同室に時事通信の記者がチェックインしていた.
なんでも金丸さんが逮捕されたそうな.
一階のレストランにてK氏,Y氏を交えてしばし日本世間話.
旅に出ると誰もが評論家になる.
この日は「皇室問題」から「日本文学の現状」まで話が及んだ.

と,そこに大スコール.
ただでさえ未舗装でグチョグチョの道路がドブ川と化した.
排水溝からうじゃうじゃとわいて出る巨大なゴキブリとねずみ.
レストラン内はパニックである.
まさに地獄絵図.
まさにクメン.
やっぱりスゴイ所である,ここは…

今夜は夕食を地元向けの店でとる.
「Capitol」のすぐ近くに「おかゆとモツ煮」の専門店を見つけたのである.
そこの店員の兄ちゃん,クメール人にしてはめずらしく,英語とタイ語を話す.
いやぁ,盛り上がった,盛り上がった.

「おいしい」をクメール語で何と言うのか聞き出す.
「チガニ」らしい.旅する上での必須単語の一つ.
よし,今後はこれを連発しよう.
あまり食料事情(味に関して)が良くないカンボジアだが,ようやく一軒,なじみの店ができた.
(その4へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(2)

1993/3/15 Mon

プノンペンの大通りを南下し,ベトナム大使館にヴィザの申請に行く.
警備員のチェックが厳しく,なかなか施設内に入れてくれない.
テロ対策だろう.
せまい一室に通された.
いかにもベトナム人っぽい,色黒でエラの張った担当官が現れた.
ヴィザの申請というよりは,何やら闇取引の雰囲気である.

所要一週間で,30日有効,US$55というのがベトナムへの最低限の手数と入国料のようだ(「Capitol」に頼むとUS$100取られる).

Kazchariの持っているカンボジアViSAの滞在期限は7days.
つまり延長が必要ということになる.
担当官にカンボジア外務省の場所を聞き,大使館を出て4kmほど歩く.
着いたら着いたで「先に入国管理局に行け」と言われた.
たらい回しである.
途上国の旅をさらに安くあげるためには,根気と体力が必要.
ただ,この過程を楽しんでもいる.

炎天下,さすがに疲れたのでバイクタクシーを拾うことにした.
600リエル.最初は2000リエルよこせなんて言いやがる.

外務省では「市場の近く」としか教えてくれなかったので大変である.
どこに管理局があるのかさっぱりわからない.
あちこちで見かけるUNTACの兵隊を捕まえて,つぎはぎで場所を尋ねつつようやく発見.
7daysの延長でUS$20.
これでカンボジアには3月28日まで滞在できることになった.

ベトナム大使館に戻り,無事にヴィザ申請.
ただし,今後しばらくはパスポートなしで旅を続けなければならない.
ここは準戦時国.
身分を証明せねば命にかかわる…といった事態に陥らないことを願う.

帰りにツールスレーン博物館(通称S-21)に行く.
全身に寒気が走るとはまさにこの事.
この世の地獄がそこにあった.
処刑前に撮られた顔写真の群…拷問用器具…放置された死体の写真パネル…牢獄…

ここは本来,学校であったという.
校庭には鉄棒がある.子供たちが遊んでいる.校舎をバックにその子達を撮った.

Capitolホテルに戻る.
一階のレストランではY氏が「下痢だ,下痢だ」と腹を抱えて苦しんでいた.
彼も旅が長い.
それに,この国はお世辞にも衛生的であるとは言えない.
彼に日本から持ってきた抗生物質を渡す.
むやみに飲むのは危険だが,化膿した切り傷から腹痛まで,効くことは効くだろう.

夕食時,昨日のK氏に加え,さらにもう一人の日本人が我々のテーブルにやってきた.
この人,「ねぇ,70番に行きましょうよー」としきりに誘う.
「70番」とはプノンペン市街の北部にある有名な売春宿街,Seventy-streetのことである.
見物だけならともかく,この人は“お試し”まで考えているようなので遠慮した.
買春には興味がない.
それに何より病気が怖い.
一人で行って来い.

アンコール・ワット観光への中継地,バタンバンへの列車はプノンペンを奇数日に出るらしい.
明後日出発することにする.
(その3へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(1)

日本を出国して,すでに2ヶ月が過ぎていた.

1993/3/14 Sun

AM6:00-バンコク.
まだ暗闇のカオサン通りを白人の酔っぱらいが闊歩していた.
旅行代理店前から空港行きバス出発.
AM7:00過ぎにドン・ムアン空港着.
空港内レストランでバカ高の朝食をとり,残金をドルに両替.
カンボジアでは少額のドル紙幣が必携なのだ.
シャム・カンプチア航空にチェックインして,出発を待つ.
旅客機は定刻より15分だけ遅れて離陸した.

エビ入りゼリーの機内食はなかなかイケる.
ただしスチューワデスは無愛想.
せっかく覚えたクメール語の挨拶をしてもニコリともしない.
もっとも,インドシナ半島の各言語は発音が非常に難しく,一度で通じたことはほとんどないが...
わずか55分のフライトでキリングフィールド・プノンペンに到着.
バンコク同様,この国の首都も暑い.

空港には白い機体に黒で「UN」と描かれたヘリコプターとランクルが数台並んでいた.
イミグレーションにはPKO 警察の日本人がいた.
「学生さん?」「大学どこ?」「一人?」「何にしにきたの?」「どこに泊まるの?」
この人、ヒマなのだろうか?
カンボジアで職質をしてどうする.
もっともこの時期に,この国を旅行するヤツは怪しいと思われても仕方がない.

US$20を払い,7days 有効のヴィザを買う.
表記がクメール語ではなく英語なのが残念である.
空港施設を出るとタクシーとバイク(カブ)の群れ.
「Where do you go ?」 の嵐の中,バイクタクシーの運ちゃんをつかまえて,中心街への値段交渉に入る.
最初US$10だったのが,前情報通りUS$1 になった.

泊まる宿は決めてあった.
その筋では有名な「Capitol Hotel」である.
バイタクの運ちゃんも場所を知っていた.
いつもそうだが,新しい国での初日は本当にワクワクする.
空路入国では人も建物もガラッと変化する.
陸路入国ではじわじわと変化する.
両方ともおもしろい.
特にプノンペンは停戦まもない特殊な街.
同じような喧噪でも,他のアジアの街とは空気が異なっている.

「Capitol」のドミトリーはUS$4だった.
一泊US$10は覚悟していただけに単純にうれしい.
荷物を置いて部屋の外へ.
Capitolホテルの一階は中華料理レストランになっている.
いや,レストラン業だけではなく,両替、周辺国のヴィザの手配,レンタルバイク/サイクル,ガイド,観光案内など,なんでもやっている.
ざっと店内を見渡すと日本人がいた.
軽く会釈して早速情報収集開始.

彼,K氏はすでにアンコール・ワットにも行っていて,料金所を通らずに遺跡に行く道やら,バタンバン,シェムリアプの安ホテル情報を聞き出す.
また,K氏はなんとベトナムのハノイ大学に留学中であった.
カンボジアの後はベトナム行きを予定していたので,貴重な情報を得ることができた.
そこへ現れたもう一人の日本人Y氏と3人で市内散策.
やたらにあるベトナム料理店の一軒で寄せ鍋を食い,アンコール・ビアを飲む.
しめて一人9000R(リエル,US$1≒2500R).
初日から贅沢している(どこが?).
明日からは少し節約要.
(その2に続く)

外国語の習得は難しい(その2)

外国語の話のはずだったが,Kazchariの半生記もしくは旅行記っぽくなってきたので,以降要点だけ.
それぞれのエピソードは別の機会に.

伊丹決意したのは良いが,ではその方法はどうする?
そうだ,現地に住めば嫌でも話す,話せるようになるという単純な発想で,この決意の約10年後,Kazchariは青年海外協力隊に参加して英語圏で2年間生活することとなる.

↓JICA海外協力隊
https://www.jica.go.jp/volunteer/application/seinen/

はたして語学力は向上したのか,ネイティブ並みになったのか,その結果は...いやぁ,ダメでした.
いわゆる業務会話はわりと流暢に話せたが(ワンパターンなので),日常会話やパーティ会話は全然身につかず,帰国直後に受けたTOEICでも640点程度.
今はもっと下がっているはず.
今,思うに(その1)で書いた原則やら実践をあまり行っていなかったなぁ...と思ふ.

と済んだことを後悔,反省していても仕方がない.
終活中なのだ.
残りの人生,行動あるのみ.
再挑戦してやる.サイドバーでオススメされていた別の動画も観た.

『どんな言語でも簡単に習得できる方法.マシュー・ユールデン』

まとめると以下の通り.

【要約】
1) 母国語との共通点を探せ ⇒ 日本人だとハングルか中国語?
2) シンプルに ⇒ 複雑な言い回しはドツボにはまる
3) 状況と必要性に関連させよ ⇒ 効率よく
4) 1日30分,定期的に短く勉強 ⇒ 少量頻回で習慣化
5) ラジオや映画を言語で楽しむ ⇒ 学習と並行して

【ルール】
1) その言語を使いながら生活する ⇒ 夢まで見れたら最高
2) 間違えよ ⇒ 人は失敗から学ぶ.※ここやね,恥を恐れすぎ
3) 競争を楽しめ ⇒ モチベショーン維持に欠かせない

(その1)で紹介した動画と言っていることはほぼ同じやね.
結局,王道しかないということか.
習慣化が何より重要.
特にルール№3には完全に同意.
自分には実績がある.
そう自転車だ.
ここ2年間ほど毎日乗っていても飽きない.
これも全てSTRAVAのおかげ.記録と競争は偉大だ.

次の旅まであと2ヶ月を切った.
さぁ,インドネシア語をマスターするぞ!(えっ?)

旅の指さし会話帳2 インドネシア(インドネシア語)[第3版]

外国語の習得は難しい(その1)

なにげにYouTubeを見ていると,TEDxでこんなネタがあった.

『どんな外国語でも半年でマスターしてしまう方法』

まとめると以下の通り.

【5つの原則】
1)自分に関わる部分に集中しろ ⇒ 映画のやり取りがわからないのは当然
2)最初からコミュの道具として使え ⇒ 習ったら使え!
3)メッセージを理解したら,その言語は無意識に使える ⇒ 相手のいいたいことを察しろ.状況を分析!
4)トレーニング! ⇒ 筋トレと同じ.習慣の力
5)心理理面が重要 ⇒ 恥・間違いを恐れるな

【7つの実践法】
1)たくさん聴け ⇒ スピードラーニングにも意味がある
2)言葉より先に意味を知れ ⇒ 非言語メッセージを見逃すな
3)組み合わせよ ⇒ 難しい語彙は憶えていなくても大丈夫
4)核に集中! ⇒ 頻繁に使う単語は何だ? それほど多くないはず
5)外国語の親を見つけよ ⇒ 気を遣わず,かつ的確に指摘してくれるマスターは貴重!
6)顔をまねよ ⇒ 正しい発音は顔全体で発する
7)イメージに直結せよ ⇒ 母語に訳すな

字幕プラス個人的な解釈なので,おかしい所もあるかもしれないが,だいたいこんな感じのことを言っていた.

今回のブログ開設もそうだが,終活の一環として様々なことに挑戦もしくは再挑戦を考えている.
外国語習得もその一つに加えたい.
この原則と実践法は大きな示唆を与えてくれた.

一般に日本人の場合,外国語≒英語という発想になろう.
英語ねぇ...中学までは得意っつーか,好きだったなぁ.
英文法はまるでパズルようだった.
思えばその認識があかんかったのかもしれん.
高校では並みの成績となり,大学では単位を取る為に講義に出て聞き流すだけで,全く興味の対象ではなくなっていた.

転機を迎えたのは大学の卒業旅行である.
初の海外は約5週間の個人旅.
当初はアフリカに行きたいという動機から予定を組んだものの,紆余曲折があり,結局ケニア2週間,インド・ネパール3週間の旅となった.
『地球の歩き方』を持ってのバックパッカー旅である.

出発前は「全部英語圏か.まぁなんとかなるやろ」という認識だったが,見事に玉砕.
こちらが言いたいことはなんとか言えたものの(事前に会話集で調べたりとか),返答の内容がわからない(ケニアはまだまし.インド英語は...).
現地の人との食堂やホテルでのやり取りだけならさほど問題なかったが,他国からの旅行者との世間話やジョークは全然成り立たない.
自分の言語能力の低さにあきれかえった.
今思えば,単純に語学力だけではなく,性格起因の対人関係力に問題があったことがわかるのだが,当時はそれに気づかなかった.

伊丹決意(当時は大阪伊丹も国際空港)ではないけれど,英語をなんとかしてやろうとこの時誓ったのだった...(その2に続く)