『ロシアン・スナイパー』を観た~傷だらけの死の女

2022/3/1 Tue

まさか2022年に侵略戦争が起きるとは.

とんでもない世界情勢になった.
もはや局地戦を除き,人類は大規模な侵略戦争はしないはず...という推論が崩れてしまった.

しかもロシアである.
国連常任理事国かつ核兵器保有国.

SF作品の中だけの出来事と考えていた核戦争が現実に起こるかもしれない.

プーチンはもはや正常な判断ができなくなっているのだろうか?
参戦の理由がない元警官のアメリカ,脱カーボンのために天然ガスが欲しいEU,台湾侵攻の自信を得たい中国.
全てのタイミングが重なった.

そんな中,Zwiftの友として,戦争映画が観たくなった.
理由はわからない.
あえて,フィクションを観て現実逃避したくなったのか?

そして,Amazon Prime Videoザッピング中に,偶然にも見つけてしまったのがこれ.

ロシアン・スナイパー(字幕版)

以下,あらすじ.

1941年、ナチスドイツによるソ連侵攻がはじまった。まだ大学生だったリュドミラは、女ながらその非凡な射撃の才能を買われ、戦場に身を投じる。狙撃兵として次々と標的を仕留めるリュドミラは、やがて敵からは”死の女”と恐れられ、軍上層部には英雄として讃えられ、戦意高揚の道具として

2015年製作の,なんとロシア・ウクライナ映画だ.
ゆえに,ロシア人はちゃんとロシア語を話しているし,アメリカ人は英語を話している.
もしかすると,主人公はウクライナ語?(もしくはウクライナなまりのロシア語)なのだろうか.
そう,主人公は伝説のスナイパー,”死の女”ことリュドミラ・パヴリチェンコである.

原題はБитва за Севастополь ⇒ セヴァストポリの戦い

邦題はもちろんイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』にかけていると思われる.
あちらはあちらで良い映画だった.

アメリカン・スナイパー(字幕版)

リュドミラ・パヴリチェンコはYouTubeの雑学系チャンネルでよく取り上げられる実在の人物である.
ゆえに,おおまかな半生は知っていた.

本作は史実とフィクションを織り交ぜたものとなっている.
予算の関係なのか,クライマックスであるはずのセヴァストリ攻防戦がかなり端折られているのが残念.

代わりにドイツ軍のスナイパーとのタイマンになってたけど,別の映画にこんなのなかったっけ? ⇒ 『スターリングラード(ENEMY AT THE GATES)』

スターリングラード [DVD]

話を『ロシアン・スナイパー』に戻す.

何より興味深いのは,リュドミラはウクライナ人ということ.
そう,当時,ソ連兵としてナチスと戦っているのだ.
その舞台もオデッサ,クリミアなど最近のニュースでお馴染みの場所ばかり.

ロシア映画にしては...と言っては何だが,かなりハリウッド風の作りになっている.戦闘シーンの迫力は今ひとつだが.

時系列が飛びまくる演出で少々流れが悪くなっている.
プロパガンダで赴いたニューヨークパート(ルーズベルト夫人との交流含む)をもう少し整理した方が良かったのでは?

役者も上手い.
超美人というわけではないが,品がある.
309人を射殺したパーフェクトソルジャーには見えない.
かと言って弱々しい女性でもなく,何か只者ではない人物として演じている.

そして,度重なる戦闘により,体中キズだらけである.
それを見たルーズベルト夫人のショックとその後の労りの言葉が印象的.

そして白眉は(本当に言ったのかどうかわからないが)最後のアメリカの参戦を依頼する演説.

「いつまで,私の後ろに隠れているつもりですか?」

ヒーローになりたがるアメリカ人をその気にさせる最強ワードやな.

一昔前,狩猟免許の取得を真剣に考えたことがある.
せっかく北海道に住んでいるのだがら,クマやらシカを撃ち放題...なんてバカなことを考えていた時期もありました.
視力の問題があって,今からの取得は難しいと思うけどな.

「兵器や戦闘がかっこいいからといって,戦争を肯定しているわけではない」とは,ミリタリーマニアがよく言うセリフ.

かの宮崎駿も,その矛盾に苦しんだという.
ゆえに,ゼロ戦映画なのに,その戦闘シーンが全くない映画を作ったりする.

ヒト(男子の間違い?)の本能として,徹底的に無駄を省いた機能美の塊である”兵器”には心を動かされざるを得ない.

そして,”戦闘本能”も拭い去ることはできないのだろう.
その代替手段として格闘技やスポーツがあるわけだ.
最大の祭典であるオリンピック開催中から既にきな臭かった.
それにまだパラも控えているというのに...

ロシアは隣国である.
この侵攻が成功するにせよ,失敗に終わるにせよ,確実に良くない影響が日本にも及ぶ(すでにガソリン高騰中).

最悪の結果にならないことを願う.