レンタルバイク&チャリの思い出

2024/1/25 Thu

使わない理由がない

3月の「環島」.
自前のチャリであるDOMANE持参(飛行機輪行)のハードルが相当高いことが判明.
ならば「いっそレンタルで」案が浮上してきた.

ここにきて「環島」プランに大変更!?

調べてみると,これがまた思っていた以上に手軽,かつ至れり尽くせりであることが判明.
「自分のチャリで走る」というこだわりを除けば,使わない理由が見つからない.

で,悩んだ末にとりあえずMathewBikeさんに問い合わせてみることにした.

公式サイトの予約申し込みフォームに名前や国籍,電話番号,身長と体重,レンタル日数などを記入.
「環島」向けに「15daysパック」なるものも存在する.

「島一周におすすめ」されていたSURLYのクロモリがやたらにかっこよかったので,とりあえず希望してみた.
ちなみに15days:7000台湾ドル(約¥35,000)と,他のチャリに比べるとレンタル料やや高め.

https://mathewbike.com/touring-bike-rental/

驚くべきことに,この料金にはヘルメットやパニアバッグ,携帯工具,パンク修理キットなどの備品も含まれている.
極端な話,手ぶらで行っても大丈夫なレベル.

面白いことに「ペダルをどうするか」との項目がある.
SPDもしくはSPD-SLを選ぶと追加料金が発生.

もちろん,Kazchariはマイペダル(SPD)を持参予定.
他にサドルも自前のつもり.ケツ痛防止のため.

この店を利用した日本人旅行者のブログによると,レンタルにするメリットは手軽さ以外にもあるらしい.

それは以下の通り.

リアにデカいパニアを付けて走っていると「環島中」なのが一目でわかり,道行く人々に色々と親切にされるそうな.
まるで,四国のお遍路やな.
さらに旗やら表示で「日本人」を主張しておくと,おもてなし度がさらにアップとか.マジか.

逆にサドルバッグ1個など,荷物を極力減らしたスマートすぎる装備だと,日帰りの現地チャリダーとみなされ,様々な恩恵を受けにくいそうな.

なるほど.これは素晴らしい利点だ.
こりゃレンタルで決定やな.

何だか承認欲求オバケのようだが,旅の成否は現地の人との交流次第.
つーことで現在,さきほどのSURLYが借りれるかどうかの返事待ち.

さて,Kazchariはこれまでの旅先でも何度かレンタバイク,レンタチャリしてきた.
その時の思い出を少し紹介.

【タイ】(1993年)

初の海外でのツーリング.
確か北部のメーサイにて,YAMAHAのモーターサイクルを借りた.
デポジットとして預けたパスポートを無造作に机に引き出しに入れるもんやから,ビビった.

1993年1月撮影

問題はその後.
当時はヘルメットの着用義務がなかったので,ノーヘルでミャンマーとの国境エリアを走り回った.ヤバイヤバイ.

1993年1月撮影 リアル強風オールバック

ここでタヒんでてもおかしくない.

【カンボジア】(1993年)

アンコールワット&トム見学時にレンタル・カブを利用.
1日5USドルだった.
この時の顛末は以下の記事に.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(6)

ここでタヒんでてもおかしくない.

プノンペン滞在中は1日1USドルのレンタサイクルでうろちょろ.
いわゆる「キリングフィールド」までサイクリング.
ひたすらのどかな田舎道.
かの有名な「70ストリート」も見物.
ゾンビのごとき群れに追いかけられてガチこぎで逃げた.

ここでタヒんでてもおかしくない.

【ヴェトナム】(1993年)

中部の都市,ダナンだったかな.
遺跡巡りのためにカブを借りた.
とある村で停車中,前カゴから荷物をパクられてびびったぁ.
すぐに犯人を見つけて,怒鳴ったら返してきた.

ここでタヒんでてもおかしくない.

【ミャンマー】(1994年)

広大なパガン遺跡見学のためにチャリを借りた.

1994年3月撮影

個人的にはアンコールより気に入った.
塔の上から見る夕陽がとんでもなく美しかった.
この時の旅はミャンマー人の親切に泣かされどおしだった.

【ジャマイカ】(2002年)

青年海外協力隊員として滞在中,現地事務所からMTBをレンタル.
買い物にツーリングにと大活躍.
運動不足の解消にもなったな.

2002年撮影

走行中はジャマイカのク〇ガキどもに「Hey!Mr.チンチョンチャン!」という,罵声というか,からかいの言葉を吐き捨てられるのがデフォルト(中国人と思われている).

【イスラムヘーレス】(2004年)

ヨメさんとの地球一周旅行中に立ち寄ったメキシコの離島でレンタルスクーター.

2004年7月撮影

やたら細長い島で端から端への縦断が楽しかった.

【イースター島】(2004年)

小学生からの夢であったイースター島訪問.
当初は名著『バックパッカーパラダイス』に感化されてレンタルバイクを考えていたが,あまりの寒さと道路状況の悪さに挫折.
たまたま知り合った日本人旅行者と3人でレンタカー(SUZUKI エスクード)をシェア.

2004年7月撮影

当時は完璧にペーパードライバーだったため,そのMさんに運転を一任.
助かりました.
海外でクルマを借りたのはこの一度だけ.

【ボルネオ島縦断】(2009年)

今は無きボルネオ専門旅行社のモニターツアーに参加.
マレーシアのコタキナバルを出発.ブルネイを経由してクチンへ.
そこから国境を越えてインドネシアのポンティアナクまで150ccのオフ車で激走!

2009年9月撮影

10日間で2000km近い壮大な旅...って,誰も知らんがなそんな場所.

会社はなくなったが,なぜかサイトは残っている.

ボルネオ島縦断ツーリング

【スリランカ】(2011年)

モルディブからの帰りにトランジット.
スクーターを借りて,ニゴンボから中心のキャンディまで往復300km近いツーリング.
山間のワインディングなど,なかなかエキサイティング.

2011年9月撮影

途中警官に停められて難くせつけられたが,「ごちゃごちゃ抜かすんやったら日本大使館に連絡するで!」と“関西弁風英語”でブチ切れたら退散.こういう時は強し.

ここでタヒんでてもおかしくない(久しぶり).

【カオラック-タイ】(2016年)

ダイビングツアー終了後,窒素抜きの空き時間.
スクーターを借りて軽くツーリング.
暑い.

2016年4月撮影

【西表島】(2018年)

久々の国内旅.
ボロボロサビサビのレンタル(ママ)チャリ.

2018年9月撮影

道路が開通しておらず,いまだに島一周できない.
あちこちに「イリオモテヤマネコ死亡事故地点」の看板が立っているのが悲しかった.

【波照間島】(2018年)

フェリーの欠航率が異常で,訪問難易度が高すぎる憧れの島.
ダイビングの予約が取れなかったので,チャリで島内散歩.
トウキビ畑を抜け,砂浜まで行きシュノーケリング.
噂にたがわぬ美しい島だった.

2018年9月撮影

しばらく空港が運休状態だったが,なんと!

沖縄2離島、住民悲願の15年ぶり空路 年間1億4千万の赤字が前提 負担する地元に大きな不安

とのこと.大丈夫か?

【石垣島】(2018年)

人生で一番楽しかったレンタルバイク.
それがこいつだ!

石垣島の電動レンタルバイク GO SHARE

電気スクーターである.
バッテリー交換方法が独特.
充電スタンドでコンセントをつっこむのではなく,2リットルのペットボトルより二回り大きいバッテリーユニットを丸ごと入れ替える方式なのだ.

これにより充電中というタイムラグは完全に消滅.

台湾メーカーが石垣島で実験的にはじめ,やがて本土進出も狙っている...という話だったが,その後の話は聞かないな.

で,その性能だがノーマルのスクーターよりなめらかな走行フィール.

だがしかし.
いわゆるハイパーモードなるものがあって,そのスイッチを入れると,ちょっとここでは書けない速度が出てしまうのだ.

見た目よりずっとパワフルで,日本中に充電パックステーション作れば結構普及しそうやけどな.
少なくとも電動キックボードよりはるかに安全.

2018年9月撮影

おっ,こうやってまとめると,結構旅先で借りまくってきたなぁ.
1日もしくは数時間のつきあいとは言え,みな思い出深い良いマシンでした.

モーターサイクルにせよチャリにせよ,レンタルだと大きな町も小さな町も自由に動ける.決まったルートを走るバスや列車にない場所に行けるのが楽しい.

「環島」も基本ルートはあるようだが,あえて寄り道してみるのも一興.
なぜか中心の山岳エリアの記録はほとんどない.
相当険しいのか,それこそ何の施設もなくてリスクが高すぎるのか?

旅の醍醐味は大都市や観光地以外に隠れているものだ.

共感しかない~『語学の天才まで1億光年』

2023/12/1 Fri

あの時あの場所で

iPhone11 Pro

高野秀行著『語学の天才まで1億光年』を読んだ.

語学の天才まで1億光年

著者はノンフィクションライター.
早大探検部出身だけあって,ただの旅ではなく誰も行かない国や地域(いわゆる辺境)にて,珍しい経験や調査をすることをテーマとしている.
全著作を読んでいるわけではないものの,いわゆる冒険家や極地探検家とは異なるアプローチで,Kazchariの知的好奇心を満たしてくれる作家さんである.

高野さんは1966年生まれ.
Kazchariと1歳違いである.
しかも1992年から93年にかけ,チェンマイ大学で日本語を教えていたという.
ちょうど,その頃にKazchariもタイを中心に東南アジアをあちこち放浪していた.ひょっとしたらどこかですれ違っていたかも.

高野さんの著作では,なんと言っても『謎の独立国家ソマリランド』が有名.
数多くの賞を受賞してる.

謎の独立国家ソマリランド

いわゆる未承認国家への訪問記.読み応えある大作で面白いことは面白いのだが,国が国だけに単独行とはならず通訳やら護衛兵同行.過去作に比べるとちゃんとしすぎ.つまり高野成分少な目で物足りなかった(すいません).

危険な国への潜入探検モノだと『アヘン王国潜入記』が超好み.

【カラー版】アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

いくら国外とは言え,その目的も行動もかなりヤバい.

ちなみに個人的に最高傑作だと思うのが『怪魚ウモッカ格闘記』である.
これ超一流のミステリー小説では?(高野初読者には決しておすすめしません).

【カラー版】怪魚ウモッカ格闘記 インドへの道

さて,今回の『語学の天才まで1億光年』は,そんな世界の辺境を旅するために学んだ数々の言語の習得方法の実録記である.

本書に登場する言語は以下の通り.

フランス語,リンガラ語,ボミタバ語,イタリア語,スペイン語,ポルトガル語,タイ語,ビルマ語,シャン語,中国語,ビルマ語,ワ語

確かにこれだけ話せれば,地球上どこに行っても大丈夫(一部極地言語も混ざっているけど).いや,ロシア語も必要か.

本書はそれぞれの言語を学ぶに至った経緯や,過去の著作の補助ストーリーが追加されている.高野ファンにとっては懐かしくもあり,楽しい構成である.

エピローグに記してあるが,今も筆者の言語学習スタイルは変わっていないそうだ.曰く...

・誰でもいいからネイティブに習う
・使う表現から覚える(目的に特化した学習)
・実際に現地で使ってウケる(現地にいるとき即興で習うことも多々あり)
・目的を果たすと,学習を終え,速やかに忘れる(ひじょうに残念であるが)

まさにそう.

Kazchariが知人に「海外旅行,楽しいでぇ」と言うと「私,英語できないから無理です」という返事が多いが,これは大きな間違い.

確かに共通語としての英語は便利だが,町中に出れば英語が全く通じない国は多い.
いや,町中どころかチリの空港のインフォメーションで「habla ingles?(英語話せますか?)」と尋ねたら,「no!」の一言で逃げられた経験もある.

それに英語が公用語じゃない国で,英語だけで通すとホテルやらガイド,観光客相手の店でしかコミュニケーションがとれない.
これは実にもったいない.

Kazchariも高野さんほどではないが,新しい国を訪れるごとに,なるべくその国のローカル言語を覚えて実践してきた.
と言っても,せいぜい挨拶と数字,「ありがとう」「~はどこですか?」「いくらですか?」程度だが.
少し慣れてくると辞書に載っていないようなスラング,特に卑猥な言葉を教えてもらった.これが若者にウケる(当時はKazchariも若者だった...).

そう,高野さんも書いているけど,語学教室や教科書で習う言葉と,実際に現地の人が使っている言葉はかなり異なる.
日本語もそう.
本書内にて中国人の先生が例文をあげている.

教科書 ⇒ 「大きいものを取ってください」
実際  ⇒ 「ねぇ,あのでっかいやつ,取って」

これが「本当のネイティブの言葉」
確かにその通り.
それに文法や発音が正しいだけでなく,大きさやトーン,スピードも合わせないと決してネイティブ(風)にはならない.ようするに「ノリ」が大事.

どの言語にもこうした要素はあるのだろう.
うーん,基礎はともかく,生きた言葉を習得するには,やっぱり現地にいないとあかんな.

Kazchariの場合,英語を除くとマレー/インドネシア語スペイン語をよく話した,いや使った.
やはりアルファベット表記で発音が簡単な言語は覚えやすい.

タイの滞在期間が長かったので,声調地獄のタイ語もがんばった.
お隣のラオスカンボジア(僧侶限定)で通じた時はうれしかったなぁ.

あれ? かつて2年間,がっつりひたったはずのジャマイカ英語は?
うーん...ついぞ満足いく域に達することはなかった.

事前に本書の指摘に気づき,真面目に取り組んでいたら,もう少し上達し,ジャマイカに溶け込むことができたろうに...すべては後の祭りである.

旅の指さし会話帳53 ジャマイカ(パトワ語・ジャマイカ英語)

高野さんの旅の原点と言えば,早大探検部時代の一大プロジェクトを記録した『幻獣ムベンベを追え』に詳しい.

幻獣ムベンベを追え

今回初めて知ったのだが,高野さんはコンゴ旅行の前に初の海外旅行としてインドに渡っている.
これまた,ほぼ同時期にKazchariもインドを旅している.
つまり見てきたこと,感じたことがかなり近い.
読んでいて共感しかなかった.

最も印象的なのはパスポート盗難事件のくだり.
恥ずかしい話だが,実はKazchariもこの被害にあったことがある.

1993年10月.タイのチェンライにて,同じ宿をシェアした“自称”イタリア人に睡眠薬をもられてパスポート,T/C,現金,航空チケット,カメラ全部やられた.

その後の警察とのやり取りは,もちろん英語.
必死になると自分でも驚くくらい流暢に話せたなぁ...って,どうでもええわ!

バンコクに戻って日本大使館に出向き渡航書を発行してもらい,帰りのチケットも航空会社のカウンターでゴネにゴネて再発行get.

そして飛行機に乗るまでの数日間,何もかも失ったKazchariは,国籍問わずホンマいろんな人に助けられた(助けを求めたせいもあるが).

翌年,その際にお世話になった人々へのお礼および,もし事件に遭わなければ次に行く予定だったミャンマーを訪れたのは,理不尽に旅を中断させられたことへの怒りだったのかもしれん(我ながら負けん気強すぎやろ).

ただ,後年考えるに,あの時パスポートを盗まれ,一年近くに及んでいた旅が強制終了させられたのは幸運だったかもしれん.
もしあのままダラダラ続けていたら,少なくとも今の生活はない.
きっとどこかの国で「沈没」し続けていただろう.
それはそれで楽しい? わからん.それはマルチバースの話.

高野さんの場合,どういう事情だったのかパスポートと航空券は戻ってきたようだが,そんな奇跡が起きることもあんねんなぁ...

つーことで,高野さんには到底かなわないものの,なるべく現地の言葉を話そうとしていたKazchariには実に刺さる本でした.

そして2023年現在.
4カ月後には久々の海外旅行が控えている.
あの頃のように,ちょっと言葉を勉強してみようかなぁ.

語学学習/ 説出好中文 台湾版 ペラペラ中国語

もう(不安もふくめて)楽しみしかない.

ヴェトナム,ダラットの本屋にて 1993年5月撮影

あぁ異国の地よ~過ぎ去りし日々

2023/9/7 Thu

全てが愛おしい

先日,Yahooニュースで面白い記事を読んだ.

いま空港でトラブル続出…日本人の若者の7割がじつは知らない?「パスポートの落とし穴」

この記事の若者(?)を笑えない.
新しいことに関しては誰もが初心者,失敗して成長するのだ.

むしろ,代理店に頼まず自分でやろうと思ったことを評価したい.
その考え方だけで既にチャレンジング.素晴らしい.

新コロ禍が(ほぼ)明け.今夏から海外旅行に出かける人が増えているようだ.
ただし円安が猛威を振るっている.

PBP参戦などの記事を読むと,燃料サーチャージはもとより,現地での飲食代,日用品の値段がえげつない.
赤コーラが¥500とか...

Kazchariが最後に海外(インドネシア)に出かけたのは2019年12月.

2019年のラジャ・アンパットダイビングクルーズ(1)

当時ですら,円の価値は既に怪しかった...

本当に時代は様変わった.
海外旅行って,もっと気軽に行けていた気がする.
では,そんなKazchariは,これまでどこを旅してきたか.

Kazchariが人生初の海外旅行に出かけたのは1989年である.
大学の卒業一人旅.行き先はケニア,インド,ネパールだった.

なぜこのように変則的なのかと言うと,当初は西アフリカのトーゴが目的地(フォスターペアレントの寄付先)だったからだ.
旅行代理店に相談したところ,「旅行初心者に西アフリカは難易度MAX」と諭され,代わりにメジャーな観光地であるケニアを薦められて変更した経緯がある.
今のスキルがあれば,ケニアからトーゴに飛べただろうが,当時はレベル1の雑魚.素直に断念した.

その際,利用した航空会社はエア・インディア.
往路,復路ともムンバイ(旧ボンベイ)でのトランジットが可能だった.

それで,インド(とネパール)を旅することになったのだが...いやもう,噂に違わぬカオスっぷり.それまでの全ての価値観がぶっ壊れた22歳の春だった.

その後,会社勤めをしたが,仕事のあまりのつまらなさに3年も経たずに退職.
大企業だったため,いわゆるブラックではなかったけど.
ひたすら自由が欲しかった.山の向こう,海の向こうの景色が見たかったのだ.

向かったのは盗難...おっと東南アジア.
タイ(バンコク)を皮切りにラオス,カンボジア,ヴェトナム,マレーシア,シンガポール,インドネシアを10ヶ月ほどバックパッカー.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(1)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(1)

戻ったタイにて睡眠薬強盗の被害に遭い,パスポートと有り金を全部ヤラれたので旅は強制終了.
そんな26歳,無職の秋.

猛勉強(?)の末,専門学校に合格.
入学前に旅館住み込みバイトで軍資金をため,再びタイの事件現場へ渡航.
その時,お世話になった方々に御礼.
落とし前をつけるため,そこから前回の旅をリスタート.
訪問を予定していた国,ミャンマー(ビルマ)を訪れる.
あそこまでやさしい国民性を他に知らない.

専門学校にておとなしく1年を過ごす.
比較的時間のあるうちにと,進級前の春休みに再びインドへ.
全く予定になかったが,現地思いつきでモルディブを訪問.
ありえない美しさの海にて,初めてスキューバ・ダイビングを経験する.

『南の島の大統領』を観た~モルディブの思い出

残りの専門学生生活を送る.
バイク事故により1年留年する羽目になったが,無事卒業し国家試験合格.
同級生だったヨメさんと結婚し,久々にまともな社会人生活を送る.

3年が経過.
かねてからの野望,青年海外協力隊への参加を模索.
参加要件を満たしたため,選考試験を受ける.
ちょっとした病気に罹患したことにより,見事に不合格.
資格を活かして1年間パート勤務.

2回目の選考試験で無事合格.
ジャマイカに2年間滞在することになった.
そんな35歳の冬.

派遣中は3週間の自主的な海外研修が可能.
近隣&許可された国だったドミニカ共和国,パナマ,コスタリカを訪問.
各国の隊員によるアテンドがディープだった.

無事2年間の任期を終えた...のだが,これまた自費での帰路変更可能.
メキシコ,ベリーズ,グアテマラに立ち寄ってから成田の地を踏んだ37歳の春

これまた資格を活かして職を見つけ,大阪から北海道へ引っ越し.
失業状態から再就職まで3ヶ月ほど時間ができたので,ヨメさんと地球一周の旅に出る.

世界一周堂の3大陸コースを選択.

アメリカ(アラスカ),メキシコ,チリ,アルゼンチン,パラグアイ,ブラジル,スペイン,モロッコ,ポルトガル,エジプト,フィンランドを訪問.
特に幼年期からの憧れ,イースター島が想像以上に素晴らしかった.

旭川に住み,再び定職についてからしばらくはGWおよび秋の連休を利用して渡航する生活が続いた.

その多くはダイビング目的.

パプアニューギニア(マダン,キンベ湾)から始まって,フィリピン(セブ)タイ(コタオ)インドネシア(コモド)パラオメキシコ(ラパス)...

リゾート滞在やクルーズ船での旅である.
国内も沖縄の離島や小笠原にも行ったなぁ.
特に気に入ったのは西表島多良間島だ.

やっかいなのは潜るだけでなく,一番金のかかる水中写真にもはまってしまったこと.

スキューバダイビング,やめよっかな?

他にレンタルバイクによる「ボルネオ島縦断ツーリング」(ツアー)にも参加.
東マレーシア(コタキナバル),ブルネイ,インドネシア(ポンティアナック)を走破.
モニターツアーだったせいか,代金が格安だったのが印象的.
その大盤振る舞いのせいなのかどうなのかわからんが,数年後旅行会社が倒産するというオチ付き.

ボルネオ島縦断ツーリング

モルディブ帰りにスリランカもバイクで走った.

娘が生後4か月の時にはグアム,2歳の時にはタイ(プーケット)に連れて行った.何の記憶も残っていないそうな.

息子ができてからは4人で台湾に行った.
娘はともかく,こちらも1歳に満たなかった息子は何も覚えていない.

そして2020年,新コロ禍の到来.
以降,パスポートのスタンプは増えていない.

こうしてまとめてみると,行きたいと思った場所にはほぼ足を運んでいる.
一度は断念した場合も,なんだかんだで最終的には到達している,なかなかリベンジな人生やな.

辛いこともあったけど,やはり旅以上に楽しいことはないな.

自由が欲しい,社会的地位も欲しい.
内面が見たい,外面も愛でたい.
片方しか知らない人生は送りたくない.
これは19歳でヘルマン・ヘッセの『知と愛』を読んで以降,Kazchariの行動指針となっている.

知と愛(新潮文庫)

何だか全てが終わってしまったかのような書き方だが,まだ見ぬ土地への憧れはあるか?
答えはYESだ.

「若い時旅をせねば老いての物語がない」(とある古典)

見るべき物,経験すべきこと,会うべき人ははまだまだ存在する.

新コロ明けたら海外旅行?

2023/3/14 Tue

そろそろ明けそう.

3/13からマスクの着用義務がなくなった.
いや違うな.日本では元々「任意着用」だった.

コンビニや飲食業の入り口にある「マスク着用のお願い」が撤去された日,と捉えるのが正しいだろう.
しばらく混乱が続くだろうが,徐々に平常運転に戻るような気がする.

いやぁ,ようやくですな.

「もはや顔パンツ.人前で外すなんてトンデモナイ」と考えるようになった人もいるようだが,Kazchariは外しますよぉ.

元々チャリ乗っている時はノーマスクやったしな.
逆に一人でクルマに乗っているのに付けている人がいる.不思議だ.

つーことで,規制緩和に伴いインバウンドも徐々に再開.
次は,こちらから出て行く番であーる.

現状だと,帰国後の隔離措置はワクチン3回接種で免除(らしい).
これ,いつまでやろ?

Kazchariはワクチンを2回しか打っていないし,この先も追加接種する気もないので,今出国すると帰りが面倒.

とりあえず,この制限が解除されたら,久々に出かけますか.

最後の海外旅行は新コロ前の2019年12月.

2019年のラジャ・アンパットダイビングクルーズ(1)

この頃の出国はほとんどが羽田から.
当時はクレカ払いをJALカードに統一し,いわゆる丘マイルで毎年旭川-羽田の往復特典使っていた.

だがしかし,新コロブームの間に各種支払を別のカードに切り替えたり,QR決済などしたりと,マイルが全然貯まらなくなってしまった.
次は国内移動分も自己負担か...うーむ.

えーい,ではどこへ行く?

なんだかんだでスキューバ・ダイビング旅は捨てがたい.
こんな記事も書いたけどな.

スキューバダイビング,やめよっかな?

旅先での目的が明確な場合,値段や手間を考えるとツアー参加がベスト.
新コロ前はフィリピンの「プエルト・ガレラ」が次の候補地だった.

今,ネットでツアー情報を見てみると...大手では組まれていない.
まだ落ち着かないのか?
新コロ前も,それほど高額だった印象はない.

一方,参加経験のあるインドネシアの「コモド」「ラジャ」は既にダイブクルーズが始まっている(リピーターなのでメルマガが届く).

ただし...その値段には驚愕.
前回より+10万~は必要.
さらに燃料サーチャージも大幅アップ.

シャレにならん額になっている.
やはり,この2か所は一生に一回の経験になるんかなぁ.
コモド・ダイビングは実に楽しかった.

ちなみに全ダイバー,究極の憧れポイントと言えばコスタリカの「ココ島」とエクアドルの「ガラパゴス」だろう.
価格も期間も手間も参加難度SS.3桁は軽く越えてきそう.

もう一つの趣味,海外サイクリングはどうだ.

先日,「2023年ツール・ド・フランス観戦ツアー」の募集を告げるメールが届いた.
以前に一度説明会に参加したことがあり,定期的に送られてくるのだ.

はたして...

ツール・ド・フランス2023観戦&サイクリングツアー

うげっ.
こんなんにサラっと参加できる人って,どこのブルジョア?
驚いたのは,この料金は食事代を含まないこと.
総額いくら?
一昔前のハイエンドロードが買える料金になっている.
通常のサイクリングツアーもたいがい...

いかんいかん.
ダイビングにせよチャリにせよ,趣味を海外で行おうとすると破産する.
まず国内遠征の方が現実的やね.

原点回帰で,ツアーをやめ,航空券だけを買って行き当たりばったり旅はどうだ.
現状,最も気になる国は「クロアチア」.
「プリトヴィッツェ湖群国立公園」の紅葉が見たい(撮影したい).

で,ざっと羽田発でザグレブ(首都)までの往復航空券,今現在の最安値でざっと往復12万か.
シーズン(秋)やと倍?
宿泊代やらなんやらを含めるとやはり30万はいきそう.

フリーのパッカーでこれかぁ.
もはや海外旅行は「富裕層の趣味」と言われる理由がよくわかる.

思えば,個人手配のバック・パッカー旅はここ数十年経験していない.

この令和の世にフリーパッカーするとどうなるか想像してみる.

現地空港に着いたら,まずSIMカードを購入.
自分のスマホをアクティベートしてもらう.
以降,宿や交通機関の予約は,全てスマホを通じて行う.

タクシーもスマホで呼んで,日本で予約済みの宿へ.
会計をカードで済ませる.

荷物を置いたらGoogleマップを見ながら街歩き.
写真を撮ったらSNSにアップ.
屋台や汚い食堂はほぼ消滅(場所による).

そこそこキレイなレストランでスマホみながら情報収集.
同じ旅行者を見かけても無視か,スマホ片手に写真を見せあう.
夜はLINEで日本にいる家族や友達と会話し,ヒマなら部屋でYouTube.

...たぶんこうなるような気がする.楽だ.

懐かしの90年代だと...

格安航空券で現地着.
たいてい深夜着.
最低限必要な現地通貨をT/Cかドル札で両替.
タクシーに乗ると,危険かぼったくられるので空港ロビーで寝る.

バスで市内へ.
そこから「歩き方」もしくは「Lonely Planet」に載っている一番安い宿まで(10km内なら)歩く.
やる気のなさそうor眠そうなフロントのにーちゃんに,「Do you have a room?」と尋ねる.

もちろんチェックイン前に部屋を確認.
水(お湯)の出,鍵のかかりぐあい,ベッド(シーツ)の清潔さ,蚊帳があれば穴が開いてないかチェック.
可能ならディスカウント交渉.

ドミトリーなら同室者の値踏み.
ジャンキーっぽいヤツがいたらもちろんパス.

タライもしくはバケツがあれば洗濯(30分漬け込み,3回すすぎで屋上に干す)
荷物を置いてでかけるが,バックバックは徹底施錠&固定物にロック.
観光がてら次の目的地までの交通手段の発着場所,時間を確認.必要なら予約.

屋台か汚い食堂でメシ.
相性良さげな日本人または西洋人に話しかけて情報収集と旅の思い出会話(多少盛る).

気が合えばそのまま遊びに行く.

夜,宿に戻り蚊取り線香を焚く,
洗濯物を取り込む.
ベッドに寝転がりながら(シーツあまりに汚いもしくは寒い場合は寝袋),日記を書き(他の旅人と交換した)文庫本を読む.

照明を消すがあまりの暑さに眠れない.
なぜか体が痒いので眠れない.
天井のファンが落ちてきそうで眠れない.
廊下で酔っ払いが騒いでいるので眠れない.
ノックされ「マッサージ?」と起こされるので眠れない.
外のクラクションや音楽がうるさくて眠れない.
エアコン効きすぎ寒くて眠れない.
隣の部屋で〇〇〇する声が聞こえて眠れない.

ああ,なんて素晴らしい夜.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(1)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(1)

改めて思い出すと,よく,こんな面倒なことをやってたな.
そんな体力と気力はまだ残っているか? Kazchariよ?

モノよりコトが大事と言われて久しい.
まだまだ世界には見たい場所がたくさんある.

戦うか? 戦えるか? 怯えるココロよ?

沢木耕太郎『一号線を北上せよ』を読んだ~そして1993年へ

2022/2/20 Sun

旅に復讐されるかも.

iPhone11 Pro

このブログを初めた頃,旅の回顧録~1993年のカンボジアというテーマの連載(?)をしていた.

これは,1993年の1月から10月にかけて行った東南アジア旅の記録で,当時の日記を元にして書いた.
そのオリジナルは,今はなき「Nifty Serve」のミステリー小説スレッドにアップしていた文章.

当時のカンボジアは長らく続いた内戦が終了し,通常選挙がようやく行われるなどなかなかの混乱具合.
選管ボランティアの日本人青年が殺害されるなどの事件もあった.

国中あちこちに地雷が埋まっており,観光するのも命がけ.
夜間には銃声.
今思うに,よくふらふらと出歩いてたもんだ.

人類史上最大の愚行の一つ「カンボジア大虐殺」に関しては,この映画のアプローチがすごい.

消えた画 クメール・ルージュの真実

こうした世界の負の側面を目の当たりにするなど,20代にああした行きあたりばったりの旅をしたことは,今の人生に大いに役立っていると思う.
この後,結局長年の夢だった協力隊への参加も実現できたしな.

この『1993年のカンボジア』は国境を越えて,ヴェトナムに入国したところで終わっている.

もちろんその後も旅は続いた.

サイゴン(ホーチミン・シティ)から,バスや列車を乗り継いでハノイまで6週間かけて北上.
カンボジアほどのインパクトはなかったけど,これまたエキサイティングな経験だった.

Kazchariが初めて海外に渡ったのはいわゆる卒業旅行.
1989年のケニア-インドーネパール旅だった.
この時の期間は1ヶ月ほど.
全てが新鮮そして強烈だったが,所詮短すぎた.

そして就職.
その会社を辞め,帰国日を決めない無期限旅行を決意させたのは2冊の本がきっかけである.

一冊は蔵前仁一の『ゴーゴー・アジア』.

新ゴーゴー・アジア(上巻)

もちろん,前作の『ゴーゴー・インド』も読了済み.
蔵前の一連の著作のおかげで,世の中にはこんなに楽しい旅の仕方があるのだと知った.

もう一冊は,より人口に膾炙する名著,沢木耕太郎の『深夜特急』である.

深夜特急(1~6)合本版(新潮文庫)【増補新版】

いまさら解説しようがない.
この本のおかげで,何万,何十万の若者が旅立ってしまったことやら...
有名な話だが,第1便,第2便(文庫版では1~4巻)と第3便の間には,6年間の刊行ブランクがある.
東南アジアやらインドが含まれる1,2便の方が旅のネタには事欠かないはずなのだが,Kazchariは第3便のヨーロッパ編が一番おもしろかった.
作者自身の文章力の向上ゆえかな(なぜ上から?).

大沢たかおのTVドラマも話題になった(VHSで保存している).
松嶋菜々子の登場にはズっこけたが.

さて,沢木耕太郎である.
その最大の魅力は,もう沢木節としか言えない独特の格調高い文体にある.
特に,ボクシングというスポーツを,ここまで詩的に昇華させた作家はなかなかいないのでは?

その影響力は凄まじく,一時スポーツライターをやってた”五体不満足”な人も,その文体をマネしていた記憶がある.

沢木の著作はかなりの数を読んでいるが,今回図書館でたまたま手にとったのがこちら.

一号線を北上せよ~ヴェトナム街道編 (講談社文庫)

珍しく未読だった.
文庫版の表紙には「ヴェトナム街道編」と書かれているが,単行本にはそのような表記はない.
「一号線」「北上」と聞いて,すぐに「あっヴェトナムのことだ」とわかるのはパッカーのみであろう.

内容は沢木のプライベートと取材旅行記であるが,ヴェトナムだけでなく,「キャパのパリ」「フォアマンのアメリカ」「檀一雄のポルトガル」「アルペンスキーのアルプス」「酒場のマラガ」(Kazchari命名)も含まれた短編集である.
Kazchariはポルトガルとスペインも訪れたことがあるので,懐かしく,楽しく読ませてもらったが,やはり白眉はヴェトナム編の2本である.

奥付をみると,2000年あたりの旅のようだ.
Kazchariは1993年の訪問だったので,若干のズレがある.

一見して,旅のシステムがかなり整ったようだ.
当時のタイと同程度か.
沢木の旅からさらに20年近く経った今では,どうなっているのやら...
Wifiも当たり前やろうしな.
そういや,ここしばらく,ヴェトナムってかわいい小物だとかグルメやらで,女性にも人気の旅先だった.
新コロが全てを破壊したけど..

ここで思いついた.

『旅の回顧録~1993年のカンボジア』の続き,つまり『1993年のヴェトナム』をリライトしようと.
まぁ,30年近く前の旅行記に何の情報的価値もないが,しょせんブログなんて単なる個人の歴史.
SNSではないので,即時性とか気にするものでもない.

ただし,本書『一号線~』にこんな記述がある.

「旅は繰り返すものではないし,繰り返せるものでもない.それを知りながら旅をなぞろうとすると必ず手痛いしっぺ返しを受ける.旅に復讐される,といってもいい.」

実際に再訪するのでもなく,文章で追憶するのも同様なのだろうか?
当時の日記を読むと,どうしようもなく,あの頃(の自分)に帰りたくなることがある.
でも,同じ瞬間は,もう二度と起こり得ない.
全ては過去.もう取り戻せない.

そう,『ブレードランナー』のレプリカント,ロイの最後のセリフのような心境になる.

一方で,沢木はこうも書く.

「旅先で覚えたその痛切な思いは,決して消え去ることはない.私たちの体のどこかに眠っていて,必要な時に呼び覚まされることになるはずなのだ.」

いいなぁ.その通りだろう.
この文章だけでごはん3杯はいけそう.
『深夜特急』本編と比較すると,『一号線~』は”帰ってきた人向けの本”なのだろう.

とかなんとか色々それっぽいことを言ってますが,これもまた”終活”の一貫として,『旅の回顧録~1993年のヴェトナム』,近日スタート!
全く需要はないだろうけど,それでいいのだ.

以下,余談.

Kazchari家では『水曜どうでしょう』の何度目かの再放送を夕食時に視聴している.
ちょうど今放送中なのが「原付日本列島制覇」という回で,東京から高知までカブで向かうという企画.
2010年の放送なのだが,鎌倉付近を通過する際,大泉がカメラに向かって「いざ!鎌倉!」と吠えるシーンに震えた.
まるで,未来を予言したかのようなセリフ.

ご存知の通り『水どう』は2002年にレギュラー放送を終えるのだが,その最後の旅がカブによるベトナム縦断1800キロなのだ.
正に一号線を北上...ではなくハノイ発で南下する旅やけどな.

またしてもシンクロニシティ発動?

Kazchari的に,今ヴェトナムが熱い!

蔵前仁一『失われた旅を求めて』を読んだ

2021/1/30 Sat

旅と写真.

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最後に海外旅行に出かけたのは2019年の12月.
このブログでも書いたラジャ・アンパットのダイビングクルーズである.

2019年のラジャ・アンパットダイビングクルーズ(1)

2020年は新コロのおかげで鎖国状態.
そんなモヤモヤの中,久々に旅行人のサイトを覗くと,蔵前仁一さんの新刊が発売されていた(4月やけど).
帯にはこうある.

1980~90年代、バックパッカーが自由に旅できた時代。それから世界は何を失い、どう変わってしまったのか。蔵前仁一が撮影した失われた世界へ旅する。

この文読んだだけで購入決定.

いつもならAmazon一択なのだが,書籍なら送料無料かつ蔵前さんのサイン入りということで本家サイトで購入した.

早々に届いたので読む.
思ったよりも小さく,薄い本だったが中身は濃い.
この年代は,ちょうどKazchariがバックバッカーだった頃とかぶる.
自分の旅した場所限定ではあるが,何もかもみな懐かしい.

章立ては以下の通り,

世界で最も変わってしまった場所:中国,クンジュラブ峠,チベット
時が変えてしまった場所:タイ,ベトナム,カンボジア,ミャンマー
失いきれないインドとその周辺:インド,パキスタン,ネパール
世界から失われてしまった場所:イラン,シリア,イエメン
旅行者に失われてしまった場所:アルジェリア,サハラ,マリ,ケニア,ウガンダ

蔵前さんの書籍は伝説の名著『ゴーゴー・インド』からほとんど読んでいる.
この本はちょうどインド旅行から帰ってきてから読んだと思う.

それまでのインド本と言えば,藤原新也『印度放浪』や椎名誠『インドでわしも考えた』など,旅行記というよりは比較文化論,ようするにやや硬い印象のモノが多い(後者は異論あり?).
両方とも名著やけどね.

一方の『ゴーゴー・インド』はゆるーいコラムとシンプルなイラストで構成.
経験者にとっては旅の追体験,“バックパッカーあるある”で大いに笑わせてもらった.

続く『ゴーゴー・アジア』『ゴーゴー・アフリカ』も読み,その他の著作も...ほぼ全部読んでいるはず.

さて,『失われた旅を求めて』だが,中国がその経済発展に伴って国内風景が激変しているのは納得だが,逆に「コルカタ(カルカッタ)は変わらない」が興味深い.
インドは時の流れが違う...というか,あの大陸には過去と現代と未来の全てが同居している.
こうやって書くだけでも,あの混沌のサダルストリートが思い出される...ホンマに変わってへんのかな.

写真もフィルムならではの質感がかえって新鮮.
この不鮮明さが,もう戻れない記憶の中の“あの頃感”をかもしだしている.

筆者も述べているが,やはり残っている(旅行中撮った)のは有名な観光地の写真が多く,街の風景を撮ったものは意外に少なかったそうな.
つまり(外国人に見せるため)観光地は変化が少なく,庶民が生活する街中の方がどんどん変わっていく,資料としては後者の方が重要ということやな.

フィルムの場合,一枚一枚が貴重.
気楽に撮れない.
キレイに撮れたかどうかの確認すらできない.

たくさん撮りたければ,フィルムそのものを大量に持参する必要がある.
現地で現像を頼むこともあるが,プリントの質も悪い.
荷物を減らしたい場合は,国際郵便で郵送するしかなかった.

まぁ,2000年以降のデジカメ時代になっても,wifiで自分のクラウドやSNSにアップするなんてのは,かなり後世の話.
そもそもネットカフェを探すのも一苦労やったし,回線状況も悪く,大量のデータを添付して送るなんてことも現実的ではなかった.
日本語環境がなくて,ローマ字でメール打ったこともあったなぁ...

世界中色々な場所に行ったけど,やはり1993年の1月から11月にかけて旅した東南アジアが一番印象に残っている.
タイ,ラオス,カンボジア,ベトナム,マレーシア,シンガポール,インドネシア,7つの国の物語.

何しろ自由だった.
そして旅は長くなればなるほど日常に近づいていく.
熱帯のけだるい空気の中に溶け込みそうやったな.
結局,居心地が良すぎたせいで油断し,睡眠薬強盗に遭って帰国という,恥ずかしい終わり方になってしまったけれど.
あれは「そろそろ目を覚ませ!」というお告げだったのかもしれん(ハード過ぎるやろ).

チャンネル登録しているガジェット系YouTuberが最近こういう動画をあげていた.

かなりクセの強い人物だが,概ね同意できる.
20歳以上年下やと思うけど,長期旅行者って同じような思考になんねんな.
特に「旅に出ると自分の実力がわかる」に関しては,ホントにそう.

自分が進まないと世界は動かない.
良い意味で世界の中心になれた.
旅のできる人生で本当に良かったと思う.

ブログで「カンボジア日記」を上げるようになってから,昔のネガフィルムをスキャンし,デジタル化する作業を少しずつ行っている.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(1)

そのままスキャンするだけでも悪くないが,少しレタッチすると,いわゆる記憶色により近いものになる.

1993年1月11日タイ-バンコク 北京飯店にて

Kazchariはレタッチソフトとして,ややマイナーな『SILKYPIX』を昔から使っている.
何しろ水中写真の補正に強い.
唯一無二.


旅の回顧録~1993年のカンボジア(完)


 
ベトナムの旅が始まる.

1993/4/5 Mon(続き)

時間経過とともに,気持ちはだいぶ落ち着いてきた.
大前田(T)さんもサイゴンに来るのは間違いない.それにサイゴンの有名カフェ「KIM-cafe」を訪れるのも確かだ.そこで待っていれば,いつか会えるだろうと結論.問題は彼のバカでかい荷物をどうやってホテルまで運ぶかである.

と,後ろの方の座席にバックパッカーっぽい白人さん達が座ってるじゃあーりませんか!
イギリス人とオーストラリア人であった.事情を話すと荷物の運搬を手伝ってくれるとのこと.彼らも安宿の集まるFang Lao通りに行くらしい.

バスは田舎道を爆走して徐々にサイゴン中心部に近づく.人の数,バイクの数が増えた.それにうわさのアオザイ姿の女性をちらほら見かけるようになった.

サイゴン(ホーチミン・シティ)着.
バス停で降りると,さきほどの白人が「こっちだ」とスタスタ歩きだす.大前田(T)氏のバックパックを背負ってもらった.

Fang Lao通り着.目をつけていた安宿「Hoang tu HOTEL」7階のツイン,US$7の部屋をとる.白人さんありがとね.

部屋に荷物を置いてさっそく街を散策…というか大前田(T)氏の捜索である.
とりあえず「ベトコン・バンク」という冗談みたいな名前の銀行で,T/CのUS$50を
ベトナム・ドンに換える。本日US$1=10530ドンであった.けっこうな札束になる.

にしても,わかりにくい街である.ロンプラの地図を見ても,どこにいるのかさっぱりわからん.まぁ確かにKazchariはパッカーの割には自他ともに認める方向音痴ではある.全体的な雰囲気はプノンペンと似ているような…と思いきや,明らかに違うのがあのアオザイ! とりわけ女子高生着用の上下白のアオザイ! 

脇の下まで入ったスリット! 透ける下着! 本当にHな服である.ほとんど犯罪やね,あれは.それにベトナムねーちゃんのかわいいこと! 言っちゃなんだが,カンボジアのねーちゃんは言うに及ばず,これ見よがしのタイのねーちゃんよりもはるかにかわいくて,かつ色っぽい.そういやプノンペンで会った日本人が,朝の通学風景はまるで妖精が飛んでるようだ…なんて言ってたなぁ.そりゃアメリカ兵負けるわ.戦争どころじゃないで.まぁ何にせよ,長期旅行者には目の保養…いや毒である.

Fang Lao通りに戻り,オープンテラスのカフェで「cafe・da」つまりアイスコーヒーを飲む.1800ドン.聞いてた相場よりやや高い(と言ってもコーヒー1杯18円というのは驚異).

リクライニングなイスにふんぞり返って,ボーっと通りを眺めていたら,なんと先々月ラオスのヴィエンチャンで一緒に薬草サウナに行ったKさんが,シクロに乗って目の前を走っているじゃあーりませんか!

あわてて追いかけたら,なんと泊まってるホテルも同じであった.バックパッカー同士はひかれあうのだ.いろいろとその後の話をしたが,相変わらず“はっぱ”好きの人であった.夜,食事をする約束をして,いったん部屋に戻る.

シャワーを浴びて,ベランダから通りを眺めていると,今度はなんと、大前田(T)さんが歩いているじゃあーりませんか!

「大前田さーん!」とベランダから大声で叫び,階段を駆け下りる.玄関を出る.大前田(T)さんが笑いながら立っている.飛びつかんばかりにかけよる二人.少々気持ち悪いが,通りの真ん中で抱き合う二人(男同士です).

「イミグレの馬鹿がさぁ,俺のビザじゃここから入国できないって言うんだよ.でさぁ,お前じゃ話にならんから,もっと上の位のヤツを呼んでこいって怒鳴ったら,なんか裏の建物に連れていかれてさぁ~まいったよ.まぁ,25ドルで話はついたけどねぇ」

「いやぁ,アオザイいいねぇ.オミヤゲに買ってかえろうかな.でさ,女に着せるわけ.もちろん下着は黒!」

全くタフな人である.
さて,ベトナムの旅が始まった.

この国はKazchariに何を見せてくれるのだろうか.

【旅の回顧録~1993年のカンボジア】(完)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(24)

カンボジアの旅が終わる.

1993/4/5 Mon

現在,サイゴン「Hoang tu HOTEL」にてこの日記を書いている.
いやぁ,今日もやってくれましたね大前田(本名T)さん…

朝からの出来事を順を追って書いていく.

AM4:30,起床
宿を出る.頭痛はするわ,カラダはダルいわで,シムリアプでの熱40度時の症状に似
ているのが怖い.

AM5:30,プノンペン市内のサイゴン行きバス停着.近くの店で水を買ってリエル札を全て消費.

AM6:00,定刻より早く発車.
運転手のすぐ隣のデスシートに座る.国道1号と言えど,やはりカンボジアン・ロード.かなり揺れた.
「ほんの数年前には,この脇のジャングルにゲリラが潜んでいて,そして正面からはベトナムの戦車がドーッとやって来てんなぁ…」と感慨にふける.
フェリーの渡し着.降車するとチェンマネ・オヤジがワラワラと湧いてくる.US$1=8000ベトナム・ドンなんてふざけるにもほどがあるレート.当然無視.

AM11:30,国境着.
何にもない荒れ地にゲートが2つ立っている.これまで何度か国境を越えてきたが,空港インより,陸路ルートはやっぱり好きです.密入国するわけではないが,何となく危険な雰囲気が…平和ボケしてます.
カンボジア側のゲートはアンコール・ワットを模した茶色.ここはもちろんフリーパスで出国.

少し歩いてベトナム側へ.V字に角張った灰色のゲート.いかにも“共産圏”って感じやね.それっぽい無愛想な係官の手続きをすませ入国.わいろ要求もなく健全健全.すぐにバスが出るわけではないので,しばらく国境ゾーンを行ったり来たりしてうろうろする.
何もとがめられない.いいかげんなもんだ…と,これは外国人,それも日本人だからだろう.カンボジア人のベトナム入国チェックは非常に厳しいようだ.

Kazchariの入国手続き中,バスの運ちゃんが20冊近いカンボジアン・パスポートをドサッとカウンターに置く.なぜか一番上にはUS$20札がはさんであったが,それはすぐに係員のポケットに消えた.

バスのチェックがこれまたスゴイ.はがすわはがすわ,天井,イス,荷棚,床下,車両下,ボンネットを開けてエンジンルームまで全部チェック.すると出てくる出てくる,ラジカセ,時計,食料品,衣料品…おそらく密輸品であろう.バスの内外で官憲とカンボジア人があちこちで口論しているが,ベトナム人に少々押され気味である.

国境にもUNTACの出張所があった.ここで非常にめずらしいものを見てしまった.インド兵のシーク教徒がターバンをとって髪をとかしている姿.すんげ.これはなかなか見れませんよ.

で,近くの食堂でベトナム料理,卵と豚肉のぶっかけメシを食う.これはうまい.肉のうま味がなんとも言えん.US$1だして 5000ドンのお釣り.わずか50円ほどでこの味とボリューム.うーむ.これからが楽しみだ.

PM1:00,バスの出発予定時刻
バスに乗り込むと,荷物はあるものの大前田(T)さんの姿が見えない.トイレや先ほどの食堂に探しに行くがいない.

とうとうバスが動き出した.あわてて飛び乗るがやはりTさんがいない.止めようにも英語が通じそうにないし,そもそも行方不明では説明がつかない.こんな国境近くでバスを引き留めておくのも悪いし,まぁあの人のことやから,この先の市場にでも行っていて,道路で手を挙げて乗り込むつもりかもしれん…と,希望的観測をたててみたが…やはりいない.

サイゴンに向けてバスは進む.この巨大なTさんの荷物,どうすんの?(続く)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(23)

今日も今日とて「Capitol」通い.何もすることがない贅沢な時間.

1993/4/4 Sun

人物点描.

M夫婦.
本業はクリーニング屋さんらしい.冗談だと思っていたが,本当に新婚旅行中.ダンナはアジア旅行慣れしているが,嫁さんはヨーロッパ・韓国のパックツアー経験しかなかったらしい.それでいきなりカンボジアとは…嫁さん,結構憔悴しきった顔をしているわけである.次はベトナムに行くとのこと.向こうで再開する可能性あり.

Iさん.
たぶん悪い人ではないのだが,話の中に30秒に1度は“オンナ”という単語が出てくるのはほとんど芸術.驚嘆した.

Fさん.
昨日バタンバンから列車で戻ってきた.
途中でポルポト派が線路をトラックで封鎖してたそうな.幸いなことにゲリラそのものは現れなかったらしいが,カンボジア旅行中の外国人は危ないのだ.誘拐され政治的かけひきの材料にされるか,もしくは殺されるという話もある.
ところでこの人,実は『歩き方』のタイ編やバンコク編を書いてるFさんその人だったことが判明.今回は取材ではなくプライベートだそうだけどベトナムのニャチャンが最高だったと,アオザイ姿の女学生の写真を見せながら言う.ふむ.

Kさん.
ジャーナリスト肌の人.やたらと政治や経済に関する話をふってくる.戦後,日本は天皇制が残されていたから発展したとか,日本の農業はどうなってもかまわない,カネさえあれば全て外国から輸入できるとかやたらに保守な意見言う人…と思いきや,なぜか反原発志向だったり,アイヌ問題に詳しかったりと,右か左か(最近ではこんな区分馬鹿馬鹿しくなってきたが)よくわからん人であった.

長期旅行者はなぜかよくしゃべる評論家タイプと,寡黙な哲学者タイプに分かれるような気がする.

大前田氏改めT氏.またも夕食の支払い時,店員ともめる.今回も外国人料金の請求が原因.多少は良いんでないの?

Kazchariはカンボジア滞在の実質的な最終日を,これらの人と過ごした.明日の今頃はサイゴンである.今,ノドが少し痛い.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(22)

自家発電のやかましさにはいい加減慣れたと思ってたのになぁ…いや,ひょっとしたら,今日タケオに行くと決めたので興奮してたのかもしれんなぁ…Kazchariは神経質やからなぁ…あーあ,眠れへんまま5時半になってしもた.

1993/4/3 Sat

「Capitol」で5ドル払ってカブを借りる.最初は大前田氏が運転.その後は1時間ごとに交代で運転することにした.

時折クメール人に地図を指さして道を尋ねるが,シャイなのか,やっかい払いしたいのか,どうも適当に教えてるフシがある.

で,そこそこ大ウソつかれながらも,なんとかタケオへの道,国道2号線を爆走する.ホンマに自衛隊が直したんかいな?と疑いたくなるヒドイ道.半分ぐらいはボコボコのダートであった.

たかだか80kmちょっとの道程を3時間かけて10時ごろタケオ着.入り口には「PKO~JAPAN」とかいう看板が立っていた.

タケオの町は小さい.
酒屋には「どうぞお気軽にお入り下さい」なんて日本語の看板があって笑えた.

駐屯地は広い.
戦車や装甲車はなく,大量のランクルやらトラックがズラーッと並んでいる.UNカラーの白が美しく,まるで新車の展示場のごとし.

入口ゲートでパスポートチェックを受ける.手持ちの服で一番マシなジーパンをはいていたが,胡散臭く見られるのは仕方あるまい.「個人での訪問はめずらしくてね」とかなんとか言われつつ身元照会.

この時,大前田氏のパスポートには別の名前が書かれていたことが判明.理由をしつこく尋ねたがはぐらかされてしまった.怪しい.今後の旅行中に追求せねば.

施設大隊本部内は冷房がきいていた.新聞記者らしき人たちがたくさんいる.
Visiterカードの記入を求められたので「○○大学学生」と大ウソ(母校なのは本当だが)を書く.正直に「無職」と書くのは不味かろう.

広島部隊所属の広報官の方が施設内を案内してくれた.

浴室(湯船あり!),PX(日本円OK),図書室,スーファミ,ビデオ部屋,それに隊員宿舎を見学させてもらう.宿舎テーブルに置いてあったカップヌードルやらふりかけが泣かせる.写真も自由にOKとのことでバチバチ撮る.

PXや自動販売機は調整中で利用できなかった.せっかく100円玉持ってきたんやけどなぁ…ジュース60円,ビール140円やって.と,色々考えているうちに見学終了.迷惑そうなそうでなかったような...

自衛隊PKOの是非なんて全く考えなかった.「現実」の中に取り込まれて何も考えられなくなった.Kazcahriの性格ってそんなもの.

駐屯地を出,タケオ市街の食堂で昼食.
お店のおねーさん曰く「ジェータイ」の人もよく来るとのこと.

食事後,店の前でカブにまたがる.アクセルふかしすぎて思わずウィリー! 町の人たちが大勢驚いた目でこっちを見る.大前田氏改めT氏,「ダメだよ~この辺,刺激ないんだからさぁ,驚かせちゃ」.まぁ納得.

帰りは3号線でプノンペンに戻る.こちらの方が道が良い.
宿に戻って休憩後,T氏からよせばいいのに広瀬隆『危険な話』を借りて読む.疲労に加え,考え事を詰め込まれ過ぎである.頭が飽和した.(その23へ)