『バイクパッキングBOOK』を読んだ

バイクパッキング BOOK 軽量バッグシステムが創る新しい自転車旅

軽量バッグシステムによる自転車旅の提案書である.
忘れかけていた何かを思い出させてくれる良書であった.
MTBによるグラベルツーリング(+テント泊)の話題が多く,まさにKazchariの旬の趣向に合致する.

自転車旅と言えば,頑丈だが重量級のクロモリ・チャリの前輪と後輪に,これまた頑丈なサイドラックと帆布バッグを4つ装着して,夏休みに真っ黒になりながら日本各地を旅する,というイメージが強い.

そしてチャリダーのメシの量は半端ない.

本書によると,昔に比べて何よりも装備の軽量・小型化が進んだ.
身軽になったことにより,未知なる場所へ踏み込むハードルがかなり下がった.
このブログで紹介してきたグラベルは基本,車も通れるダブルトラック,農業や林業用道路がほとんど.
著者の意見ではシングルトラック,つまり登山道や獣道のトレイルにこそ旅の醍醐味があるそうな.

Kazchariも元々はオートバイ野宿ライダー.最近,乗る機会がすっかり減ったものの,『HONDA XR250 BAJA』(1996年型)を未だに所有している.

思い起こせば1987年の夏,初の北海道ツーリングはなかなかの苦行であった.
当時はインターネットも,ノウハウを教えてくれる師匠も友人もいない.
せいぜい雑誌(『OUTRIDER』など)をむさぼり読んで装備を整えるぐらいしか事前準備できなかった.

若さは得てして楽観的思考を生む(準備万端にできるほど資金もない).
保温性能が低いわりにかさばる3シーズンシュラフと,雨風にめっぽう弱くデッドスペースだらけのダンロップの黄色い三角テント,EPIストーブとコッヘルのみがキャンプグッズ.
しかもバイクはレーサーレプリカポジションの『HONDA VFR400Z』.
何とかなるだろうと大阪の自宅を出発.

舞鶴からフェリーに乗って,小樽に上陸し北を目指すという定番パターン.
キャンプ最初の夜は背中が痛くて眠れない.
そう,銀マットなどの地面に対するクッション類は持っていなかったからだ.
さらにはライトもないので夜は真っ暗.8月と言えど,北海道の朝は寒くて目が覚めた.

それでも2週間の旅からの帰宅後はすっかり野宿ツーリングに目覚めた.
出会った旅人たちのなんと面白かったことか.
失敗経験からの反省や社会人になったことによる金銭的余裕から装備品も徐々にアップデート.
オフロードバイク『HONDA NX125』も買い足した.

大阪在住時には四国,九州方面.
沼津に住んでいた頃には伊豆半島,信州方面は元より,東北地方まで足を延ばすなど,ほぼ日本中をバイクで周った.

昨今は,スノーピークのアメニティドームを軽自動車(ハスラー)に積んで,家族4人で毎年8月に1泊×2回ほどするファミリーキャンパーである.
これが決してつまらないわけではないが,何かが足りない.

スノーピーク(snow peak) テント アメニティドーム (新品番)

自転車趣味が高じてからは,オートバイではなく,旅するチャリダーが目に付く.
正直に言おう.うらやましいのだ.

しかしながら,よくよく考えてみると,ここ数年は既にバイクパッキングに極めて近いことを既に実践していることに気づいた.
そう,これって600kmのブルベ装備とさほど変わらない.
サドルバッグ,トップチューブバッグ,フロントポーチは既に持っている.
ストーブなどの調理道具もある.軽量テントさえ買い足せば,いつでも旅立てる.

プロモンテ(PuroMonte) 超軽量山岳テント [日本国内生産品]

現在,年末から元旦にかけての,ファットくんによる年越し宗谷岬ツーリングを計画中.

本当に実行するのか?
予断を許さない状況である.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(8)

旅先での病気ほど不安なものは無ひ.

1993/3/20 Sat

昨夜は39℃の熱が出た.

幸い,この「Sunrise Guest House」には安宿にはめずらしく冷蔵庫がある.
薬を飲み,凍らせたミネラルウォーターのボトルを頭に押しつけ,懸命に熱を下げる.
体力をつけねばと思い,サンドイッチとバナナを腹に詰め込む.
明け方,ようやくこの日記が書けるまでには回復した.

今日は全く動けない.
カンボジアからの手紙を友人に出そう.

ここは地の果てカンボジア
照りつける太陽
ハエが飛ぶ飛ぶプノンペン
国中暴走 UNTAC
足の無い人うーじゃうじゃ
一雨来ればゴキブリ,ネズミがゾーロゾロ
飛行機ケチって列車に乗れば,屋根にしか座れない
人類の至宝アンコール,拝観料70ドル,払うが嫌さに抜け道行けば,“地雷危険”の標識あり
昨日は1ドル=2900リエル,それが本日5800リエル.
下手な両替バカをみる
こんな場所でも住めば都のカンボジア
私の旅はまだまだ続く

と,病明けのとち狂った頭で考えた文章を数名に送ることにした.
今,熱をはかると37℃.
マラリアではなかったようだ.

明日は再び,アンコール遺跡を見にいく予定である.
(その9へ)

旭川,初雪

OLYMPUS TG-5

旭川にとうとう雪が降った.
気象台によると例年より14日遅く,昨年より8日早いそうな.

今朝もファットくんで出勤.
昼食のため,いったん帰宅するも雨交じりのみぞれ状態.
職場に戻る際にはクルマに乗り換えた.

もう少しふわふわな雪になってほしい.
その方が濡れない.

根雪になるのはもう少し先.
ファットくんをスパイクタイヤに履き替えて,圧雪路,凍結路をガシガシ走りたい.

そして3月末までロードは冬眠となる.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(7)

カンボジアの通貨はリエル(R).
昨日はヤミでUS$1=2900Rだったのが,今日は5800R…

1993/3/19 Fri(続き)

穴の状態から推測するに,ごく最近爆発したのは明白である.

クンツは「俺はまだ21歳だ! 死にたくない!」と泣きそうな声を出している.

なぜかすっかりハイになっていたKazchariは「何言うてんねん!あとちょっとや! それに俺らは男やないか! Let’s Go!」とわけのわからないことを叫ぶ(不思議な事に興奮すると英語が流暢になる).

めちゃめちゃである.

この時,Kazchariの脳内では特撮オープニングのアレ,そう,猛スピードでバイクが通り過ぎた後に後方で爆炎があがる,あのシーンが再生されていたのは言うまでもない(んなアホな).

が,クンツ動かず.
やがてKazchariの興奮もだいぶ収まり,状況を冷静に考える余裕が出てきた.

「足1本とUS$70か…ちょっとなぁ…よし! クンツ,戻るで!」

クンツ,ホッとしたような表情.
二人してカブにまたがったまま,タイヤの跡をなぞりつつ後退する.
おっとその前に,穴とカブとKazchariを被写体に,クンツに写真撮影を頼む(前回の写真).
さぞかし“変なヤーパン”と思われたことだろう.

帰り道,UNTACの工事現場近くを通ると,敷地から小銃を持った兵隊が飛び出してきた.
一瞬「まさか,ポルポト…」と恐怖に駆られたが,水色帽子のUN兵であった.
呼び止められ,パスポートの提示を命じられたが,Kazchariのはベトナム大使館に預けたまま.
つまり,コピーしかもっていない.

で,少々もめたがなんとか信用してくれた.
話を聞くとただの工事現場ではなく,案の定,地雷処理班の駐屯地であった.
「この辺はマジで危ないから,舗装路以外は走ったらあかん」と注意を受けて解放.
ご迷惑をおかけ(したかも)申し訳ありません.

結局,強行突破に失敗した最初の料金所まで戻る.
渋々カネを払おうとすると,係員が料金リストを出してきた.
実は入場料US$70というのは遺跡全部を見学した際の値段.
何のことはない,一つだけならUS$13でよいのだ.
これなら全然たいした額ではない.
ましてや足1本とは比較にならない.
プノンペンで仕入れた情報って…口コミ旅あるあるやな.

ゲートをくぐり,ようやくアンコール・ワットとご対面.

刻すでにAM6:30!
苦労した甲斐のある荘厳な姿が観れて大満足であるが,曇天の中そびえ立つ寺院は思っていたより小さかった.

本堂に近づくにつれ,その傷み具合というか,すり減り具合がよくわかる.
かつてここに大勢の人が住んでいたとは想像しがたい.

先行の日本人2人と合流.
3時間あまりの冒険談を話す.
よく無事でいたもんだ.

が,実はこの時,病魔はすでにKazcahriのカラダを深く蝕んでおり,ガンガン頭痛はするわ,前後感覚がおかしくフラフラするわで,せっかく訪れたアンコールをじっくりと見学できる状態ではなかった.
全ては夢の中の出来事だった様.

一通り城壁のレリーフを見物した後,入場料を払うことになったKazchariとクンツに,大前田氏が屋台ラーメンとコーヒーをおごってくれた.

健康状態はますます悪化していくものの,せっかくだからとアンコール・トムにも向かう.
途中チケットのチェックゲートらしき物があったが,誰もいなかったので気にせず通過.

トムの壁面,“クメールの微笑”にもようやく対面することができた.
こちらの方が好みの造形.
気分はすっかり「地獄の黙示録」か「ボトムズ・クメン編」.
実に良い(体調以外は).

他の小さい遺跡群も,カブをとばしてざっと見学.

昼近くになり日差しが強くなってきた.
もう一人では立てないほど衰弱していたので,クンツに宿に戻ってくれるよう頼んだ.
それからは…
(その8へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(6)

AM3:30,起床.
ここ数日の無理な旅程がたたってか,ノドが痛く,頭痛,寒気がする.
しかし,ここまで来てアンコール・ワット見物をやめるわけにはいかない.

1993/3/19 Fri

いよいよアンコール・ワット見物に行く.
ツアー参加者であればワゴンで昼間にゆっくりと“安全に”見学できるのだが,バックパッカーにその様な贅沢は許されない.
できるだけ早朝に宿を出発し,料金所の係員が寝ている間にゲートを突破するのだ.
“足”はもちろん「愛知県警」の名前入りスーパーカブである.
昨日のうちに1日US$5でレンタルしておいた.

体調が不安なものの出発する.
カブは計4台.
Kazchariとクンツの日独コンビ,Y氏と大前田氏の日本人組,残りは同宿の2組の白人グループである.

体格差を考慮し,クンツが運転する.
まだ暗闇の中を4台のカブが遺跡に向けて疾走する.
地図に記載されている料金所があるという2本の道のうち,細い方に進路をとる.

料金所のゲートが見えてきた.
が,その瞬間,カブのエンジン音に目を覚ましたのか,料金所係員が数人外に飛び出し,上がっていたゲートを降ろそうとする.
先行していた日本人組と白人1組はゲートをすり抜けることができたが,われわれ日独コンビと,もう1つの白人組は係員に捕まってしまった.
ズルはできないものである(反省).

近寄ってきた係員が眠そうな顔で,入場料US$70(高い!)を払えと言う.
白人組は首を振ってカブをUターンさせた.
もう一ヶ所の料金所に向かうようだ.

われわれも道を引き返すことにしたが,料金所突破はあきらめ,プノンペンで会ったK氏に教えてもらった,料金所が存在しないという“裏ルート”を目指すことにした.

本道からワキ道に入る.
情報通り,UNTAC 車両が停車する工事現場(だと思っていた)を発見.
「この道や」と確信しさらに進む.
しばらく走ると舗装がとぎれてダートになった.

道はますます細くなる.
あぜ道のようだ.
左右は雑木林.
もちろん人家は見えない.
やや不安を感じつつも,さらに前進…だだっ広い野原に出た.

前方には森があり,その向こうには…アンコール・ワットの尖塔が見えるではないか!
その距離,残り約 300メートル!…と,しばらく進んだ後,急にクンツがカブをストップ.

「なんや?クンツ,どないした?」と尋ねると,クンツが硬直している.
ふと,周りの地面を見ると,黒焦げの草や粘土層むき出しの新しい穴がボコボコ開いている…通り過ぎてきた道,つまりカブの後方にもいくつか…ある.
さらに,進みべき前方には穴が無く,平らな地面が続いている.
この状況が意味するのはただ一つ…

われわれ日独コンビは “DANGER MINES ZONE”,つまり地雷原のまっただ中にいたのだ.
(その7へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(5)

ここはまだ戦場(らしい).

1993/3/18 Thu

AM5:00,起床.
トイレに行く.
尿が濃い.
もしくは少量血が混じってるような気がしないでもないが,アンコール・ワットへ向けての最後の難関,6時間のタクシーツアーを決行する.
ホテルを出,市場の前でたむろしているタクシーと交渉.
一人US$5でシェアすることができた.
運転手+我々旅行者4人+現地人1名がくるま(カローラバン?)に乗り込む.

出発後しばらくは道路もキレイで快調にとばしていたのだが,途中でパンク.
その修理のため小さな村で朝食をとる.
カンボジア名物クイニョン(ソバ)を食べた.
ほとんど溝のないタイヤを,これまた同じような状態のタイヤと交換.
その修理用工具も廃車のピストンを利用したものだった.

牛車や馬車も走るカンボジアの田舎.
白地に黒マークのUNTACトラックの数も増えてきた.
平原の真ん中で,UNの検問.
装甲車には機関銃を構えた兵隊が立っていた.
自動小銃を持った兵隊がくるまをのぞき込む.
おおっ,まるで戦争映画みたいや.
Kazchari一行はフリーパスだったが,付近で何かあったのだろうか?

道はますますひどくなる.
未舗装+ところどころ陥没していて,それらを避けながら走るため,非常にノロノロ運転である.
外の風景はまさにケニアのサファリ.
360度の地平線である.
アフリカまで行かなくても,近場にこの様な素晴らしい所があったのだ.

何度かウトウトしているうちにAM11:30,シムリアップに無事到着.
事前に仕入れた情報で評判の高かった「Sunrise Guest House」にチェックインする.
何とも凶悪な趣味(真っ赤なシーツにピンクレースの蚊帳付きベッド)の部屋だったが,クンツと一人US$3でシェアできたのと,とりあえずシャワーが浴びたかったので妥協する.
清潔さに問題はない.

シャワー後,4人で市場に昼食に行く.
どうでもいいが,このクンツ,屋台などの「得体の知れない食べ物」が食えない典型的な西洋人であった.
朝からバケットしかかじっていない.
大丈夫か?

昨日より同行しているO氏,いやあえて「大前田氏」と呼ぶ.
日本を出て10ヶ月になるそうだ.
いやはや,その旅のすさまじいこと.
山が好きで,今回の長旅の目的はエベレスト登山のベースキャンプまで行くことだったらしく,それはすでに達成済.
その他,個人旅行を認めていないブータンに密入国するルートなど,おもしろい話をいろいろと聞く.
また,この大前田氏,自称「めちゃめちゃ喧嘩っ早い」そうで,中国の未開放地区で民間人と何度も殴り合った経験があるという.
うーんスゴイ.
よく生きてるもんだ.
大前田氏はプノンペンに戻った後,カンボジアの海岸にも行く予定とのこと.
で,一緒に行くことを考えた.
ただし,海岸部はいまだにポルポト支配下なので“マジで”やばいというウワサもある.

市場にはバングラデッシュ人のUN兵がたくさんいた.
その中の一人がドル札をヒラヒラさせて,ビールをおごってやるから,そこのテーブルに座れと言う.
で,わけのわからん愚痴を聞かされつつ飲んでたら,最終的にその兵隊の分の料金まで払わされそうになった.
えーい,貴様はインド人か!(ハズレてはいない).

どうやら,バングラデッシュとかガーナ隊が,手当のより良い最前線で働いているそうな.
この彼の月給はUS$800.
命がけの出稼ぎかもしれない.
(その6へ)

続・グラベル探索(西神楽編)ライド

OLYMPUS TG-5

Partly Cloudy, 7°C, Feels like 5°C, Humidity 56%, Wind 3m/s from NW

今日は晴れの特異日だとか.その割には曇っていて寒い.
それでも走る前からワクワクする週一のグラベルライド.
AM10:00,自宅を出発.
目的地があいまいなのはいつものこと.
とりあえず南に向かい,ダートあらばスッと入ってみる.
自由だ.

OLYMPUS TG-5

進むにつれて文字通り方向性が決まってくる.
今日は西神楽をメインに攻めることにした.
今夏にロードで行って,その人外魔境ぶりに引き返した山道を進む.
”どうしたらこのように成長する?”的な木をパチリ.

OLYMPUS TG-5

ロードでは無理と判断し,前回はあきらめたグラベルをファットくんでガシガシ進む.
すると前方にネコが…逃げては振り向くヤツを追う.
そのうちにますます森の深部へ…おおダークファンタジーのようだ.

OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5

例によってクマにビビりながら進むとこれまた素晴らしいグラベル突入.
いいねぇ,このカーブ.セクシーだ.

OLYMPUS TG-5

意外に車の通行も多いのか非常に走りやすい.
登り下りを繰り返し,どこまで続くのだろうと思う頃.
行き止まり地点に車が.
人もいた.
ちら見しただけなのではっきりとは言えないが,派手な蛍光色のベストを着ていたのでハンターなのかもしれない.
熊どころか,自分が誤射されて,散弾銃で穴だらけにされる光景が目に浮かんだ.
マジで撃たれることないんやろか?

OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5

えらい標高が高いところにある貯水池的なところでUターン.
グラベル探索はドン付きターンを繰り返すことが多い.
なんせ行き当たりばったりなので.

OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5

往路とは違う道で戻る.
なんとなく見覚えのある風景.
またしても分岐路で未知の道を進むと視界が開けた.
この瞬間がたまらん.
陽もきれいに入る.

OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5

パシパシと自撮りし,さぁメシメシ~とチャリを見ると,ツールケースが開いている.
まさかと思い中を確認すると,OH,My god! エアゲージを見事に紛失ぅぅ!

パナレーサー 空気圧計 デュアルヘッドデジタルゲージ 米式/仏式バルブ対応

2500円の高級品.
おそらくギャップの激しかったあの辺りでは?…と目安をつけ,来た道を少し引き返す…健闘むなしく発見できず.
使い勝手むっちゃええのに…といいつつ同製品,なんと2回目の紛失である.
Kazchariとの相性が良くないのか?
いずれにせよ必携品なので帰宅したら注文しよう.

補給食は持参しているものの,やはりちゃんとしたものが食いたい,ということで川沿いの土手,岸を爆走し町に戻る.
空腹のはずが面白そうなグラベルを見るとついつい寄り道してしまう.
昨日の雨による水たまりがあちこちにあり,ファットくんも下半身もドロだらけである.
ああ,なんて楽しいのだ.

OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5

食事はセイコマで.
直線距離で12,3kmにいつもの倍以上の時間と距離をかけてる.
なんて贅沢.

OLYMPUS TG-5

PM2:00.
すっかり寒くなった.
ウィンドブレーカも着た.
さぁ,家に帰ろう.
もちろん寄り道しながら.
チャリの何が良いって,それは軽いこと.
どれだけ道が細かろうが,急坂だろうが,藪に阻まれようが,溝があろうが,かつげばなんとかなる.
オートバイの林道ツーリングでは得られなかった自由がここにある.

まだまだ知らない道がわんさかある.
来週はいよいよ薄氷ライドかも.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(4)

列車の旅が、良い

1993/3/17 Wed

AM4:00.起床.簡単に荷造りしていると,隣のベッドの西洋人も起きた.
「バタンバンに行くのか?」
「ああ」
「ついてっていいか?」
ドイツ人,クンツが仲間になった.

AM5:00.プノンペン駅.
電灯がついておらず,真っ暗な駅で途方にくれていたところ,タイ語を話す僧侶を発見.
チケット窓口やらプラットホームの番号を教えてもらう.
うーむ,しかしこちらから「プーツ パーサ タイ ダイ マイ?(タイ語を話すか?)」なんて尋ねるようになるとは,我ながら成長したものである.
この坊さん,タイ-カンボジア国境の街,アランヤプラテートまで行くらしい.
外国人には許可されていないが,僧侶は陸路で国境を越えることができるのだ.

列車がホームに入ってきた.
待ちくたびれた人々が群がる.
しかし,7両編成の列車のうち,客車の数はわずかに2両ほど.
他は貨車やら家畜輸送車両である.
つまり全員が客車に乗るのは不可能.
実は僧侶に話しかけて「トモダチ」になったのは理由がある.
思惑通り,人々は僧侶に席を譲る.
それに便乗してクンツと2人,席を確保できた.
くっくっく.計算通り!

客車に入りきれなかった人はどうするのか?
列車の屋根に登るのである.
窓から見える景色がすばらしい.
草原-森-草原と変化に富む.
村落内を通る.
一見,牛車を引いた人が歩くのどかな風景なのだが,その村には「DANGER MINE!(地雷危険)」と書かれた赤い立て札があちこちに立っていた.

水程度しか持参しなかったのだが,意外に食事には困らない.
列車が停まると,地元民が飲み物や串焼き(ビーフ!),果物をカゴを下げて売りにくる.
中でも「蜘蛛の姿焼き」に驚愕.
タランチュラサイズの蜘蛛の脚を1本づつちぎって食べた後,黒い団子状になった胴体部にかじりつくのである.
さすがにこれは食えなかった.

PM4:00.試しに屋根に上がる.
この時間になると車内よりはるかに涼しい.
それにすばらしい眺めである.
世界屈指のワイルド路線でないか.
何人か旅行者らしき者もいた.
「Capitol」で会ったY氏が,日に灼けて真っ赤な顔で座っていた.
下痢が治りたてなのに大丈夫なのか?

PM6:00.終点バタンバン駅着.
駅から少し歩くとホテルだらけである.
しかも新しい建物が多い.
アンコール・ワット観光が(一応)できるようになってから建てられたのだろうか?
結局「23-TOLA HOTEL」 のツインをクンツと一人US$5でシェアすることにした.

夕食は駅前の屋台街へ.
ひさしぶりの「ぶっかけめし」と...てっきりゆで玉子だと思って手にした,インドシナ名物「もう生まれるんですタマゴ」もしくは「半熟ひよこタマゴ」を初めて食す.
コリコリとした舌触りがなんとも...珍味である.

帰り道,とある商店のテレビにニュースが映っていた.
情報収集しようと画面を観ていると,その店の人たちがイスを薦めてくれるわ,お茶をくれるわ,商品のミネラルウォーターをくれるわでさぁ大変.
タイ語を解するじーさんとコミュニケーションをとる.
日本で働いているという息子の写真を見せてもらった.
23日にまた来ると約束し,家族全員と固い握手.
すごく単純なことだけど,不思議に感動して泣いてしまった.
「これだから旅はやめられない」とつぶやきつつ,ホテルに戻る.

KazchariとクンツとY氏,それに同じホテルに泊まっていた日本人のO氏と4人で,明日タクシーをシェアし,アンコールの町,シムリアップに行く相談をする.
(その5へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(3)

タイ語とラオス語は東京弁と大阪弁ぐらいの違いしかないが,タイ語とクメール語では東京弁と鹿児島弁ぐらいの差がある.- だから?

1993/3/16 Tue

この時期のカンボジアの夜はさほど暑くはない.
ただし一晩中響きわたる騒音(自家発電器のモーター音)と,昨日のツールスレーンの光景が頭から離れなくて2~3時間しか眠ることができなかった.

さらにドミトリーの部屋で一番困る事態が発生.
そう扇風機の直撃である.
他人が強風で回しているのを止めるわけにはいかんし...で,朝から風邪気味で鼻ずるずるである.
白人の連中は裸で寝てて寒くないのか?

午前中,プノンペン市内を北に向けて歩く.
おっと,その前に朝食で念願のフレンチ風サンドイッチを食べたことを書かねば.
具(焼き豚と野菜)が山盛りで1000リエルであった.
ラオスで食べたのとよく似た味である.
旧植民地と言えども,本場(?)のフランスパンなので,咀嚼するとアゴが非常に疲れる.

ドーム型の巨大な建物,セントラルマーケットに行く.
中は典型的なアジア市場.
生鮮食品,金物,陶器,服屋の他,札束をガラスケースにわんさか積んだ貴金属屋さんが目立つ.
ついつい銀(っぽい)ネックレスをUS$5で買っちまった.
野外ではサル,ウサギ,オウム,インコ,タガメ,そしてアリクイetc…を売っていた.
ペットショップでないことは確かである.

明日乗る列車の時刻表でもあるかと思い,駅に向かう.
構内がひんやりと涼しいのでベンチでボーッと座ってたら,周囲にカンボジアのオヤジ達が集まってきて,じろじろ見よる.
なんだか居心地が悪くなってきたので駅を退散.
悪意は感じなかったが,まだまだ個人ツーリストがめずらしいのだろうか?

展望を期待して丘の上にあるお寺に登る.
カンボジアもタイやラオスと同じ小乗仏教.
光り輝くネオン・ブッダのお出迎えであった.

「Capitol」に戻る.
同室に時事通信の記者がチェックインしていた.
なんでも金丸さんが逮捕されたそうな.
一階のレストランにてK氏,Y氏を交えてしばし日本世間話.
旅に出ると誰もが評論家になる.
この日は「皇室問題」から「日本文学の現状」まで話が及んだ.

と,そこに大スコール.
ただでさえ未舗装でグチョグチョの道路がドブ川と化した.
排水溝からうじゃうじゃとわいて出る巨大なゴキブリとねずみ.
レストラン内はパニックである.
まさに地獄絵図.
まさにクメン.
やっぱりスゴイ所である,ここは…

今夜は夕食を地元向けの店でとる.
「Capitol」のすぐ近くに「おかゆとモツ煮」の専門店を見つけたのである.
そこの店員の兄ちゃん,クメール人にしてはめずらしく,英語とタイ語を話す.
いやぁ,盛り上がった,盛り上がった.

「おいしい」をクメール語で何と言うのか聞き出す.
「チガニ」らしい.旅する上での必須単語の一つ.
よし,今後はこれを連発しよう.
あまり食料事情(味に関して)が良くないカンボジアだが,ようやく一軒,なじみの店ができた.
(その4へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(2)

1993/3/15 Mon

プノンペンの大通りを南下し,ベトナム大使館にヴィザの申請に行く.
警備員のチェックが厳しく,なかなか施設内に入れてくれない.
テロ対策だろう.
せまい一室に通された.
いかにもベトナム人っぽい,色黒でエラの張った担当官が現れた.
ヴィザの申請というよりは,何やら闇取引の雰囲気である.

所要一週間で,30日有効,US$55というのがベトナムへの最低限の手数と入国料のようだ(「Capitol」に頼むとUS$100取られる).

Kazchariの持っているカンボジアViSAの滞在期限は7days.
つまり延長が必要ということになる.
担当官にカンボジア外務省の場所を聞き,大使館を出て4kmほど歩く.
着いたら着いたで「先に入国管理局に行け」と言われた.
たらい回しである.
途上国の旅をさらに安くあげるためには,根気と体力が必要.
ただ,この過程を楽しんでもいる.

炎天下,さすがに疲れたのでバイクタクシーを拾うことにした.
600リエル.最初は2000リエルよこせなんて言いやがる.

外務省では「市場の近く」としか教えてくれなかったので大変である.
どこに管理局があるのかさっぱりわからない.
あちこちで見かけるUNTACの兵隊を捕まえて,つぎはぎで場所を尋ねつつようやく発見.
7daysの延長でUS$20.
これでカンボジアには3月28日まで滞在できることになった.

ベトナム大使館に戻り,無事にヴィザ申請.
ただし,今後しばらくはパスポートなしで旅を続けなければならない.
ここは準戦時国.
身分を証明せねば命にかかわる…といった事態に陥らないことを願う.

帰りにツールスレーン博物館(通称S-21)に行く.
全身に寒気が走るとはまさにこの事.
この世の地獄がそこにあった.
処刑前に撮られた顔写真の群…拷問用器具…放置された死体の写真パネル…牢獄…

ここは本来,学校であったという.
校庭には鉄棒がある.子供たちが遊んでいる.校舎をバックにその子達を撮った.

Capitolホテルに戻る.
一階のレストランではY氏が「下痢だ,下痢だ」と腹を抱えて苦しんでいた.
彼も旅が長い.
それに,この国はお世辞にも衛生的であるとは言えない.
彼に日本から持ってきた抗生物質を渡す.
むやみに飲むのは危険だが,化膿した切り傷から腹痛まで,効くことは効くだろう.

夕食時,昨日のK氏に加え,さらにもう一人の日本人が我々のテーブルにやってきた.
この人,「ねぇ,70番に行きましょうよー」としきりに誘う.
「70番」とはプノンペン市街の北部にある有名な売春宿街,Seventy-streetのことである.
見物だけならともかく,この人は“お試し”まで考えているようなので遠慮した.
買春には興味がない.
それに何より病気が怖い.
一人で行って来い.

アンコール・ワット観光への中継地,バタンバンへの列車はプノンペンを奇数日に出るらしい.
明後日出発することにする.
(その3へ)