あぁ異国の地よ~過ぎ去りし日々

2023/9/7 Thu

全てが愛おしい

先日,Yahooニュースで面白い記事を読んだ.

いま空港でトラブル続出…日本人の若者の7割がじつは知らない?「パスポートの落とし穴」

この記事の若者(?)を笑えない.
新しいことに関しては誰もが初心者,失敗して成長するのだ.

むしろ,代理店に頼まず自分でやろうと思ったことを評価したい.
その考え方だけで既にチャレンジング.素晴らしい.

新コロ禍が(ほぼ)明け.今夏から海外旅行に出かける人が増えているようだ.
ただし円安が猛威を振るっている.

PBP参戦などの記事を読むと,燃料サーチャージはもとより,現地での飲食代,日用品の値段がえげつない.
赤コーラが¥500とか...

Kazchariが最後に海外(インドネシア)に出かけたのは2019年12月.

2019年のラジャ・アンパットダイビングクルーズ(1)

当時ですら,円の価値は既に怪しかった...

本当に時代は様変わった.
海外旅行って,もっと気軽に行けていた気がする.
では,そんなKazchariは,これまでどこを旅してきたか.

Kazchariが人生初の海外旅行に出かけたのは1989年である.
大学の卒業一人旅.行き先はケニア,インド,ネパールだった.

なぜこのように変則的なのかと言うと,当初は西アフリカのトーゴが目的地(フォスターペアレントの寄付先)だったからだ.
旅行代理店に相談したところ,「旅行初心者に西アフリカは難易度MAX」と諭され,代わりにメジャーな観光地であるケニアを薦められて変更した経緯がある.
今のスキルがあれば,ケニアからトーゴに飛べただろうが,当時はレベル1の雑魚.素直に断念した.

その際,利用した航空会社はエア・インディア.
往路,復路ともムンバイ(旧ボンベイ)でのトランジットが可能だった.

それで,インド(とネパール)を旅することになったのだが...いやもう,噂に違わぬカオスっぷり.それまでの全ての価値観がぶっ壊れた22歳の春だった.

その後,会社勤めをしたが,仕事のあまりのつまらなさに3年も経たずに退職.
大企業だったため,いわゆるブラックではなかったけど.
ひたすら自由が欲しかった.山の向こう,海の向こうの景色が見たかったのだ.

向かったのは盗難...おっと東南アジア.
タイ(バンコク)を皮切りにラオス,カンボジア,ヴェトナム,マレーシア,シンガポール,インドネシアを10ヶ月ほどバックパッカー.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(1)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(1)

戻ったタイにて睡眠薬強盗の被害に遭い,パスポートと有り金を全部ヤラれたので旅は強制終了.
そんな26歳,無職の秋.

猛勉強(?)の末,専門学校に合格.
入学前に旅館住み込みバイトで軍資金をため,再びタイの事件現場へ渡航.
その時,お世話になった方々に御礼.
落とし前をつけるため,そこから前回の旅をリスタート.
訪問を予定していた国,ミャンマー(ビルマ)を訪れる.
あそこまでやさしい国民性を他に知らない.

専門学校にておとなしく1年を過ごす.
比較的時間のあるうちにと,進級前の春休みに再びインドへ.
全く予定になかったが,現地思いつきでモルディブを訪問.
ありえない美しさの海にて,初めてスキューバ・ダイビングを経験する.

『南の島の大統領』を観た~モルディブの思い出

残りの専門学生生活を送る.
バイク事故により1年留年する羽目になったが,無事卒業し国家試験合格.
同級生だったヨメさんと結婚し,久々にまともな社会人生活を送る.

3年が経過.
かねてからの野望,青年海外協力隊への参加を模索.
参加要件を満たしたため,選考試験を受ける.
ちょっとした病気に罹患したことにより,見事に不合格.
資格を活かして1年間パート勤務.

2回目の選考試験で無事合格.
ジャマイカに2年間滞在することになった.
そんな35歳の冬.

派遣中は3週間の自主的な海外研修が可能.
近隣&許可された国だったドミニカ共和国,パナマ,コスタリカを訪問.
各国の隊員によるアテンドがディープだった.

無事2年間の任期を終えた...のだが,これまた自費での帰路変更可能.
メキシコ,ベリーズ,グアテマラに立ち寄ってから成田の地を踏んだ37歳の春

これまた資格を活かして職を見つけ,大阪から北海道へ引っ越し.
失業状態から再就職まで3ヶ月ほど時間ができたので,ヨメさんと地球一周の旅に出る.

世界一周堂の3大陸コースを選択.

アメリカ(アラスカ),メキシコ,チリ,アルゼンチン,パラグアイ,ブラジル,スペイン,モロッコ,ポルトガル,エジプト,フィンランドを訪問.
特に幼年期からの憧れ,イースター島が想像以上に素晴らしかった.

旭川に住み,再び定職についてからしばらくはGWおよび秋の連休を利用して渡航する生活が続いた.

その多くはダイビング目的.

パプアニューギニア(マダン,キンベ湾)から始まって,フィリピン(セブ)タイ(コタオ)インドネシア(コモド)パラオメキシコ(ラパス)...

リゾート滞在やクルーズ船での旅である.
国内も沖縄の離島や小笠原にも行ったなぁ.
特に気に入ったのは西表島多良間島だ.

やっかいなのは潜るだけでなく,一番金のかかる水中写真にもはまってしまったこと.

スキューバダイビング,やめよっかな?

他にレンタルバイクによる「ボルネオ島縦断ツーリング」(ツアー)にも参加.
東マレーシア(コタキナバル),ブルネイ,インドネシア(ポンティアナック)を走破.
モニターツアーだったせいか,代金が格安だったのが印象的.
その大盤振る舞いのせいなのかどうなのかわからんが,数年後旅行会社が倒産するというオチ付き.

ボルネオ島縦断ツーリング

モルディブ帰りにスリランカもバイクで走った.

娘が生後4か月の時にはグアム,2歳の時にはタイ(プーケット)に連れて行った.何の記憶も残っていないそうな.

息子ができてからは4人で台湾に行った.
娘はともかく,こちらも1歳に満たなかった息子は何も覚えていない.

そして2020年,新コロ禍の到来.
以降,パスポートのスタンプは増えていない.

こうしてまとめてみると,行きたいと思った場所にはほぼ足を運んでいる.
一度は断念した場合も,なんだかんだで最終的には到達している,なかなかリベンジな人生やな.

辛いこともあったけど,やはり旅以上に楽しいことはないな.

自由が欲しい,社会的地位も欲しい.
内面が見たい,外面も愛でたい.
片方しか知らない人生は送りたくない.
これは19歳でヘルマン・ヘッセの『知と愛』を読んで以降,Kazchariの行動指針となっている.

知と愛(新潮文庫)

何だか全てが終わってしまったかのような書き方だが,まだ見ぬ土地への憧れはあるか?
答えはYESだ.

「若い時旅をせねば老いての物語がない」(とある古典)

見るべき物,経験すべきこと,会うべき人ははまだまだ存在する.

新コロ明けたら海外旅行?

2023/3/14 Tue

そろそろ明けそう.

3/13からマスクの着用義務がなくなった.
いや違うな.日本では元々「任意着用」だった.

コンビニや飲食業の入り口にある「マスク着用のお願い」が撤去された日,と捉えるのが正しいだろう.
しばらく混乱が続くだろうが,徐々に平常運転に戻るような気がする.

いやぁ,ようやくですな.

「もはや顔パンツ.人前で外すなんてトンデモナイ」と考えるようになった人もいるようだが,Kazchariは外しますよぉ.

元々チャリ乗っている時はノーマスクやったしな.
逆に一人でクルマに乗っているのに付けている人がいる.不思議だ.

つーことで,規制緩和に伴いインバウンドも徐々に再開.
次は,こちらから出て行く番であーる.

現状だと,帰国後の隔離措置はワクチン3回接種で免除(らしい).
これ,いつまでやろ?

Kazchariはワクチンを2回しか打っていないし,この先も追加接種する気もないので,今出国すると帰りが面倒.

とりあえず,この制限が解除されたら,久々に出かけますか.

最後の海外旅行は新コロ前の2019年12月.

2019年のラジャ・アンパットダイビングクルーズ(1)

この頃の出国はほとんどが羽田から.
当時はクレカ払いをJALカードに統一し,いわゆる丘マイルで毎年旭川-羽田の往復特典使っていた.

だがしかし,新コロブームの間に各種支払を別のカードに切り替えたり,QR決済などしたりと,マイルが全然貯まらなくなってしまった.
次は国内移動分も自己負担か...うーむ.

えーい,ではどこへ行く?

なんだかんだでスキューバ・ダイビング旅は捨てがたい.
こんな記事も書いたけどな.

スキューバダイビング,やめよっかな?

旅先での目的が明確な場合,値段や手間を考えるとツアー参加がベスト.
新コロ前はフィリピンの「プエルト・ガレラ」が次の候補地だった.

今,ネットでツアー情報を見てみると...大手では組まれていない.
まだ落ち着かないのか?
新コロ前も,それほど高額だった印象はない.

一方,参加経験のあるインドネシアの「コモド」「ラジャ」は既にダイブクルーズが始まっている(リピーターなのでメルマガが届く).

ただし...その値段には驚愕.
前回より+10万~は必要.
さらに燃料サーチャージも大幅アップ.

シャレにならん額になっている.
やはり,この2か所は一生に一回の経験になるんかなぁ.
コモド・ダイビングは実に楽しかった.

ちなみに全ダイバー,究極の憧れポイントと言えばコスタリカの「ココ島」とエクアドルの「ガラパゴス」だろう.
価格も期間も手間も参加難度SS.3桁は軽く越えてきそう.

もう一つの趣味,海外サイクリングはどうだ.

先日,「2023年ツール・ド・フランス観戦ツアー」の募集を告げるメールが届いた.
以前に一度説明会に参加したことがあり,定期的に送られてくるのだ.

はたして...

ツール・ド・フランス2023観戦&サイクリングツアー

うげっ.
こんなんにサラっと参加できる人って,どこのブルジョア?
驚いたのは,この料金は食事代を含まないこと.
総額いくら?
一昔前のハイエンドロードが買える料金になっている.
通常のサイクリングツアーもたいがい...

いかんいかん.
ダイビングにせよチャリにせよ,趣味を海外で行おうとすると破産する.
まず国内遠征の方が現実的やね.

原点回帰で,ツアーをやめ,航空券だけを買って行き当たりばったり旅はどうだ.
現状,最も気になる国は「クロアチア」.
「プリトヴィッツェ湖群国立公園」の紅葉が見たい(撮影したい).

で,ざっと羽田発でザグレブ(首都)までの往復航空券,今現在の最安値でざっと往復12万か.
シーズン(秋)やと倍?
宿泊代やらなんやらを含めるとやはり30万はいきそう.

フリーのパッカーでこれかぁ.
もはや海外旅行は「富裕層の趣味」と言われる理由がよくわかる.

思えば,個人手配のバック・パッカー旅はここ数十年経験していない.

この令和の世にフリーパッカーするとどうなるか想像してみる.

現地空港に着いたら,まずSIMカードを購入.
自分のスマホをアクティベートしてもらう.
以降,宿や交通機関の予約は,全てスマホを通じて行う.

タクシーもスマホで呼んで,日本で予約済みの宿へ.
会計をカードで済ませる.

荷物を置いたらGoogleマップを見ながら街歩き.
写真を撮ったらSNSにアップ.
屋台や汚い食堂はほぼ消滅(場所による).

そこそこキレイなレストランでスマホみながら情報収集.
同じ旅行者を見かけても無視か,スマホ片手に写真を見せあう.
夜はLINEで日本にいる家族や友達と会話し,ヒマなら部屋でYouTube.

...たぶんこうなるような気がする.楽だ.

懐かしの90年代だと...

格安航空券で現地着.
たいてい深夜着.
最低限必要な現地通貨をT/Cかドル札で両替.
タクシーに乗ると,危険かぼったくられるので空港ロビーで寝る.

バスで市内へ.
そこから「歩き方」もしくは「Lonely Planet」に載っている一番安い宿まで(10km内なら)歩く.
やる気のなさそうor眠そうなフロントのにーちゃんに,「Do you have a room?」と尋ねる.

もちろんチェックイン前に部屋を確認.
水(お湯)の出,鍵のかかりぐあい,ベッド(シーツ)の清潔さ,蚊帳があれば穴が開いてないかチェック.
可能ならディスカウント交渉.

ドミトリーなら同室者の値踏み.
ジャンキーっぽいヤツがいたらもちろんパス.

タライもしくはバケツがあれば洗濯(30分漬け込み,3回すすぎで屋上に干す)
荷物を置いてでかけるが,バックバックは徹底施錠&固定物にロック.
観光がてら次の目的地までの交通手段の発着場所,時間を確認.必要なら予約.

屋台か汚い食堂でメシ.
相性良さげな日本人または西洋人に話しかけて情報収集と旅の思い出会話(多少盛る).

気が合えばそのまま遊びに行く.

夜,宿に戻り蚊取り線香を焚く,
洗濯物を取り込む.
ベッドに寝転がりながら(シーツあまりに汚いもしくは寒い場合は寝袋),日記を書き(他の旅人と交換した)文庫本を読む.

照明を消すがあまりの暑さに眠れない.
なぜか体が痒いので眠れない.
天井のファンが落ちてきそうで眠れない.
廊下で酔っ払いが騒いでいるので眠れない.
ノックされ「マッサージ?」と起こされるので眠れない.
外のクラクションや音楽がうるさくて眠れない.
エアコン効きすぎ寒くて眠れない.
隣の部屋で〇〇〇する声が聞こえて眠れない.

ああ,なんて素晴らしい夜.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(1)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(1)

改めて思い出すと,よく,こんな面倒なことをやってたな.
そんな体力と気力はまだ残っているか? Kazchariよ?

モノよりコトが大事と言われて久しい.
まだまだ世界には見たい場所がたくさんある.

戦うか? 戦えるか? 怯えるココロよ?

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(6)

1993/4/11 Sun

気分はもうヴェトコン.

Konica 現場監督

入国後6日経って,ようやく遠出.
パック旅行やったらもう帰国日やな.

今日はクチの観光.

ファング・ラオ通りのレンタル・バイク屋で,世界に誇る名車,スーパーカブをUS$5で借りる(これが相場).
現地でのこのスーパーバイクへの信頼度はめちゃめちゃ高く,クルマの購入よりも現実的な憧れの品である.

そして,サイゴンの町中は何の用かは知らないがカブで渋滞している(+東欧性バスの排気ガスがひどい).

そんなサイゴンを脱出し,60kmほど北上する.
モクバイボーダーから来たときに通った道である.
田植えと,その収穫を一緒にしている風景が広がる.
何毛作?
南国だねぇ.

何度か道を尋ねつつ目的地へ向かう.
会話は英語+ジェスチャーで.
ヴェトナム語で「~はどこですか?」(旅の必須イディオム)を早く覚えねば!
めちゃめちゃ寂れたというか,だからこその田舎にあるクチに到着.

クチはヴェトナム戦争時の激戦地として有名な土地.
ゲリラたちが掘った地下トンネルが縦横無尽に走っている.

Konica 現場監督

他の観光客と資料館で簡単な説明を受ける.
隣には日本語がペラペラの台湾人のマダム達.
「ワタシ,ニホンゴデキルデキル!」と何故か大喜び.

すっかり打ち解けたマダム達と,木立の中の(屋根は最近ふいたらしい)作戦室や調理場を見学.
アメリカ兵に襲われた特の逃走用横穴にはカマドウマがうじゃうじゃいた.

Konica 現場監督
Konica 現場監督

で,いよいよクチのメインイベント,トンネル潜入である.
観光客用に拡げられたという穴に,ドカドカ入る.

いやぁ面白いわ.

中腰のままバタバタとトンネル内を走り回り,写真を撮りまくる.
西洋人だと,これ狭いやろうな.
もちろんふくよかな台湾人マダムは見学.

Konica 現場監督
Konica 現場監督

このトンネル,本来はもっと大規模やったはずやけど埋められてしもたんやろか?
もしくは開放しているのは一部だけなのか.

休憩後,昔のままの入り口(Kazchariサイズでなんとか入れる)に入る.

Konica 現場監督

竹槍が仕込まれた落とし穴(痛いって),塹壕,放置された戦車を見て,15000ドンにしては充実のクチ見学が終了した.

Konica 現場監督

陽気な台湾マダムや,元ヴェトコン兵と写真を撮り,戦争中の記録ビデオを鑑賞.

マダムからは「タイワンニキタラ,アソビニキテ」と住所を書いたメモをいただいた.
(※この数カ月後,大前田(T)さんは実際に訪れ,大歓迎を受けたとのこと)

Konica 現場監督
Konica 現場監督

帰り道,道を尋ねたおじさん達の親切なこと!
ヴェトナムに対する印象がかなり良くなった.

サイゴンに戻った後,チョロン地区へ食事に行く.

Konica 現場監督

少々期待はずれ.
メシもそれほど美味くなかった.
川の汚さが印象に残った.

Konica 現場監督

ああ,メシのせいだけじゃない.何かまずいな.
旅が長くなるとかかるという“何にも感動しない症候群”にかかりつつあるんかなぁ.
せっかく観光らしい観光したのにな.

Konica 現場監督

その前日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(5)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(5)

1993/4/10 Sat

南行きメンバー募集.

相変わらず書類がそろわない.
日々不安の中で過ごす.
何のために旅をする?
苦行の一種なのか?

「気にしない」と思えば思うほど気になってしまう.
なんとかなると思っていても,なんとかならない時があるのが個人旅行.
まるでロールプレイングゲーム.
決められた手続きをクリアしていけば,いつかはゴールにたどり着くのだろうか?

というわけで,サイゴンでの事務手続き地獄はまだ続く.

朝から大前田(T)さんと市内の公安オフィスを訪問.

その結果,大前田(T)さんは現状のままだと,やはり来週の月曜日には出国しなければならないらしい(警官によって意見が違うようだ).
とてもじゃないが,この後,陸路でハノイまで北上し,中国(昆明)に抜けるようなルート設定は日程的に不可能.
同様のルートでラオスに抜けたいKazchariも,今の滞在許可期間では全然足りない.

まぁ,こうした途上国,特に国がようやく安定し,これから観光業に力を入れようとする国に,手続き上の不備というか,いい加減さはありがちではある.

特にヴェトナムにおける個人旅行が解禁されたのは最近.
団体旅行ならまだマシ.
個人の個別事情にいちいち対処するのは,国としても面倒くさいのだろう.
(※これは日本大使館も同様と,この半年後に痛感する)

実際,今日会った空港inの旅行者は,なぜか一週間の滞在しか許可されなかったそうな.
この適当なシステムの被害者が日々増え続けているような気がする.

さて,公安からの帰り道に郵便局で日本の友人に絵葉書を出した.

そして少し大きめの百貨店へ.
◯◯市場と違って品揃えは...良いのか? 高いのは確か.
そこで,念願のコーヒーフィルター,新しいコイル電熱器(壊れたので2代目),コーヒー豆(ひいたもの)を購入.

さらにベンタン市場に寄って鉄製のマグカップも購入.
ふっふっふ,ついにヴェトナムコーヒーを楽しむための一式をそろえたぞ!

VAN CANHホテルに戻ると,以前会った新婚さんに偶然再会.
「最近,見ないなぁ」と思っていたが,何かの事情で一度バンコクに戻り,再びサイゴンに帰ってきたらしい.
金持ちは違うのぉ.

SINカフェに行き,これまでの手続き狂騒曲を説明.

今後予定している南部デルタ地帯のミトやカントー方面への遠征メンバーに誘うと,快諾.

夜は大前田(T)さんを交えてまたも中華街へ.
今日も食った食ったの一人17000ドン(安っ).

そして,ホテルに帰って作ったヴェトナムコーヒーは...あまりに苦かった.

(続く)

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その前日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(4)

その翌日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(6)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(4)

1993/4/9 Fri

希望から絶望へ

Konica 現場監督

事務手続きばかりで,一向に前進しないヴェトナム旅.

Kazchariと大前田(T)さんは,これからハノイまでできるだけ陸路を使って北上したい.
そのためには現状のヴィザ期限では短すぎるのだ.
その延長ができるかどうかわからない手続きのために,今日という日も消費されてしまうのか?

正に本末転倒.

しかし,これもまた,無期限パッカーにのみ許された贅沢とも言えよう.

とりあえず,入国許可スタンプ(?)とか関税申告書のことは一旦保留し,ヴィザの延長だけにターゲットを絞ることにした.

朝から大前田(T)さんとまた旅行代理店へ.
本日向かうのは,バンコクにて大前田(T)さんの「モク・バイ(陸路入国)」ヴィザを手配した店のサイゴン支店である.

シクロを使うと料金交渉にかなりHPを削られることがわかっているので,代理店まで歩くことにした.
甘かった.
大前田(T)さんはエベレストのベースキャンプまで一人で登れる健脚.
Kazchariはそこまでの体力はない.
足元はビーサンやし.

そう,なんやかんやで10kmは歩いた.ヘロヘロである.
ようやくたどり着いたその店は,若い娘三人が切り盛りしている雰囲気の良い,かつ良心的な店であった.

事情を説明すると,当局に掛け合ってくれるとのこと.
少々不安だが,パスポートを預けることになった.
ここは信用するしかないだろう.

三人娘に希望を託し,ファング・ラオ通りに戻り,ランチカフェ.

サイゴンはまだまだ旅行者のたまり場となる場所が少ないので,この通りのカフェで張っていると,すでに知り合いの旅行者によく会うのだ.
(※注:ネットや携帯のない時代)

サイゴンよりさらに南下し,メコンデルタ川下りツアーの船をシェアする相談を持ちかけるためである.
大前田(T)さんと二人だけだと,高くつくのだ.

しかし,今日に限って誰も来ない.
後日に期待するか...

さて,時間が余った.
「ホーおじさん記念館」に行くも昼の休憩時間.

ここで大前田(T)さんと一旦別れて一人,「戦争博物館」へ行くことにした.
入場料7000ドン.おそらくガイジン料金.

なんとも適当な展示方法.
ヴェトナム戦争で使われた武器が無造作に置いてある.

Konica 現場監督
Konica 現場監督
Konica 現場監督

他には,アメリカ軍による胸クソ虐殺写真や,「枯れ葉剤による奇形児のホルマリン漬け」が並ぶ.
ふと考えれば,この国,戦後からまだ20年も経ってないのだ.

旧大統領の館跡を過ぎて,隣の「革命博物館」も見学.
前知識があまりないので展示物を見てもよくわからない.
知っているのは「アメリカの傀儡政権である南ヴェトナムを解放するために,ホーチミンが北ヴェトナム軍を率いて,反政府ゲリラのヴェトコンと手を組み,アメリカ軍を追い出した」というぐらい(合ってる?).
無料なのは救い.
カンボジアの前に行ったラオスの首都,ヴィエンチャンにあった“赤い部屋”の方がずっとインパクトがあったなぁ.

15時過ぎに宿に戻り,部屋にいると,ちょうど代理店から電話がかかってきた.

曰く,Kazchariのヴィザは今すぐに延長可能.ただし2週間(短い!).

大前田(T)さんに至っては「モク・バイ」入国期限日から換算して1ヶ月オンリー,つまり来週月曜日には出国しなければならないという,理解し難い裁定.

「これはシャレにならん」と,2人してあわてて代理店に出向く.

3人娘には罪はない.
結局イミグレーションで直接直談判しようということになり,スタコラと3日前(もうそんなに経った!)に行ったイミグレを再度強襲!

しかし...全く相手をしてもらえず,翌日「公安」にて再チャレンジすることにした.

大前田(T)さんはほとんど諦めの境地にあるようだ.

夕食は今日も中華街へ.
食卓の友,ニョクマムがクセになってきた.かけまくる.

なんだかんだで博物館に行ったし,サイゴンをひたすら歩いたせいか,今日になってようやく観光らしい観光をした気がする.

そして気づいたこと...サイゴンの街はう○こがよく落ちている.
そして小便くさい.

懐かしい...そう,インドから香辛料の匂いを抜いた感じに近い.

(その5へ)

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その前日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(3)

その翌日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(5)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(3)

1993/4/8 Thu

これぞパッカーの1日.

Konica 現場監督

蚊がいた.
寒かった.
鼻水が出た.
朝食が美味かった.

カンボジアで日本人ボランティアが殺された.

SUNIMEXに行ったがラチがあかなかった.
(注:何のことだかわからない)

日本への手紙を出しに郵便局に行ったが,消印のみで切手を貼ってもらえなかった.

やはり入国許可スタンプや税関申告が気になった.
タンソンニャット国際空港に行くことにした.
行きはシクロでUS$2.5だった.
帰りはバイクタクシーでUS$1だった.
空港のイミグレでも何の進展もなかった.
出国カードの裏側に何かを書かれた.
税関申告カードもラチがあかず,「Big Problemだ!」と脅された.

バイクタクシーの親父と料金でもめて口ゲンカになった.
関西弁で怒鳴ったら逃げた.

「Cefe CaCa」で食事した.
2日前に会った日本人旅行者にビールを奢ってもらった.
同じく「モク・バイ」入国で書類が揃わず焦る日本人旅行者にも会った.
大学生だった.
日本人3人で中華街へ行った.
鴨の足を食べた.

雑貨屋で牛乳石鹸を見つけた.
日本製品の直輸入店だった.

ホテルの部屋に戻って,先程の旅行者と雑談した.

サイゴンに滞在して4日が経った.
何の観光もしていない.

(その4へ)

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その前日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(2)

その翌日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(4)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(2)

1993/4/7 Wed

フォーとケーキと

扇風機をつけながら寝ると体に悪いと言うが,暑さと蚊のせいで眠れないよりはマシ.

そう,昨夜はこの人工的な涼しさの中,ぐっすりと眠ることができた.
朝,少々頭痛が少々残るものの,胃は回復した.

この宿も悪くないが,より快適さを求め,大前田(T)さんと,近所にあるエアコン付きUS$5の「VAN CANH HOTEL」(注:声調記号は省く)を見に行く.
部屋はそこそこ良かったが,残念ながら共同トイレの水の出が悪かったので,エアコンはもちろん,シャワー/トイレ付きUS$9のツインにアップグレードした.
2人だと宿代が助かる.
「部屋が暗いからヤダ」と大前田(T)さんは最後までゴネてたけど.
いやいや,あなた,電気スタンド持ち歩いてるやん.

元の宿から荷物を搬送.

それにしても...エアコン付きの部屋なんて今回の旅行で初めてである.
実に快適.
チェックイン後,外で食事.
「ヴェトナムうどん」こと,フォーを食べることにする.

相場がわからないので,半屋台っぽい店で値段を尋ねる.
どこで聞いてもなぜか一律4000ドン(約40円).
これが,この近所のフォー固定価格なのかね?
地元民と同じ?
それともボラれてるのだろうか?

適当に座って「フォー・ガー」(鶏肉入り)を注文.
思ったほど美味くない.
日本を出て3ヶ月が過ぎ,そろそろ世界最強の「日本のうどん」が恋しくなってきた(禁句).

宿への帰り道,よくわからんが医療器具がやたらに置いてある店でタイ製の歯磨き粉を5000ドン(約50円)で買う.

ヴェトナムのホテルはお湯を用意してくれるのがうれしい.
持ち歩いているインスタントコーヒーが飲めた.

ヴェトナムには,有名なコーヒーセットがある.

illustACフリー素材

粉コーヒーを濾すのだが,これをどこかで手に入れたい.
その後,昼寝をしたり,日本へ手紙を書いたりしているうちに,サイゴンは夜の7時.

胃の調子もぐっと良くなり,食欲も出てきたので「シン・カフェ」まで出向き,東南アジアのメジャー食,野菜ぶっかけメシを食べる.

ナムプラー(?)の小皿もついてきたので,タイ料理のノリでドバっとかけると酸っぱくなりすぎた.
これがヴェトナムのニョクマムか.
以後,注意すべし.

食事の後,裏通りをジャラン・ジャラン(散歩).

店も並んでおり,それほど暗くはないが,これまでの国に比べ少し恐怖を感じた.
事前にサイゴンの悪いウワサを聞きすぎたせいか.

宿の近くのケーキ屋に寄る.
2個で2400ドンという激安品を買う.

部屋で食べると異様に甘かった.

(続く)

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前日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(1)

翌日 ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(3)

旅の回顧録~1993年のヴェトナム(1)

1993/4/6 Tue

Good Morning VIETNAM!

Konica 現場監督

カンボジアでの旅を終えたKazchari.国境でのゴタゴタを乗り越えて無事にヴェトナムに入国.
(注:当時の日記のリライトにあたり,「ベトナム」を「ヴェトナム」表記に変更)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(完)

サイゴン(ホーチミン・シティ)にいる.

現在,体調最悪.
ヴェトナムの第一印象も最悪.

カンボジア,タケオの自衛隊訪問以降,少しずつ悪化していた体調がどうやら本日ピークに達したようだ.

まず,昨夜,激しい嘔吐と下痢に襲われた.
朝も下痢と頭痛.

部屋に迎えに来た大前田(T)さんに散々,「疲労だよ,疲労!」と言われ続けた.
Kazchari本人もヤバイ病気でないことを願いつつ,大前田(T)さんと一緒に,サイゴン散策に出かける.

観光というよりは事務手続きが目的.
まだまだ個人旅行客の受け入れシステムが整っていないヴェトナムでは,必要な書類や手続について,旅行者間であーでもない,こーでもないと推測合戦が繰り広げられている.

現状の懸念事項は3つ.

一つは国境でもらえなかった「関税申告書」
もちろん,税金がかかるようなモノは持ち込んでいないが,それならそれで出国時に半券(?)を渡す国が多い.

次に「滞在許可証」の申請可否.
ヴィザはもちろん持っている.
それとは別の書類が必要という噂が出回っていた.

最後に「ヴィザの延長」
今回,カンボジアにて「モク・バイ」という陸路入国も可能な特殊なヴィザをとった.
最大滞在日数は1ヶ月.
ヴェトナムにはもう少しいたいので,サイゴンにいる間に延長申請がしたかった.

これらを解決するため,今日は動く.

まず,公的旅行代理店(?)である「ヴェトナム・ツーリスト」に行く.
スタッフから「滞在許可証の申請要,現状ヴィザの延長不可」という説明を受ける.
実にそっけない.
ただし,サイゴン発のツアーの話になると急に宣伝が激しくなった.
こりゃアカン,こちらの疑問にははなから答える気なしと判断し,店を出る.

朝食がまだだった.
次にサイゴンで有名な日本人経営の居酒屋「ドラえもんカフェ」に行ってみる.

(注:2022年現在,似たような名前の店「どらえもん かか」がある.その前身なのだろうか?)

朝定食(ごはん,卵,野菜,味噌汁,梅干し)US$2.5とバナナシェイクを頼む.
なかなかのボリュームと味であった.

そこへ,店長の日本人Hさんが,なぜかテニスウェア姿で登場.

Hさん曰く,「滞在許可証は必要なくなったけど,しておいた方がいい.ここはそういう国だから」とのこと.面倒くさい.

(注:この事務手続き関連のいい加減さには後々も悩まされることになる)

朝食後,次は「サイゴン・ツーリスト」へ.

店構えからして「いかにも国営でござい」という印象(どんな?).
スタッフが言うには「滞在許可証は不要,ヴィザの延長は残り日数が2,3日になればできる」とのこと.口調や雰囲気からここのスタッフの言うことが一番信用できそう...とここまでは良かった.

Kazchariのパスポートをパラパラとめくり,「モク・バイ」ルートで押してもらったヴェトナムの入国スタンプを見て,いきなり怒り出し「滞在許可マークが付いていない!大問題だ!」といきなり騒ぎ出す.知らんがな.

当然,同じように入国した大前田さんのパスポートにもそんなマークは押されていない.(まぁ,それ以前に賄賂入国...)

「国境のイミグレに戻ってもらってこい!」とむちゃくちゃ理不尽なことを言うので,Kazchariも(ことさら沸点の低い)大前田さんもブチ切れ!

「このミスはお前らの問題で,こっちには何の責任もない!」と怒鳴り返してやった.なぜかこういう時は英語がスムーズ.

あちらの反撃ターン.
「ヴェトナムにいたかったら,ここのルールに従え!」と言い返しやがる.
ホンマ,お役所国家である(正論やけどな).
同じ共産圏でもラオスの方がずっとましやった.ブツブツ.

むかっ腹のまま「サイゴン・ツーリスト」を出る.

市内のイミグレーションに行けば,第一の課題である,関税申告書を入手できるかもしれんと思い,炎天下の中,トボトボと歩く.

イミグレ着.
旅行者でごったがえす中,英語がわかるポリスを捕まえる.
曰く「出国カードとヴィザだけあれば“ガイジン”はNo problem」だそうな.ホンマに?

とりあえず,その言葉を信じることにして,もうこの件でジタバタするのはやめようと,大前田(T)さんと決める.

ホテルに戻ったのはよいけれど,猛烈に身体がだるく,完全にグロッキー.
寝て目が覚めたら夜の8時であった.
下痢はまだ続き,食欲がないので,パンと水だけの夕食.
シャワーと洗濯の後,日記を書いていたら大前田(T)さんが部屋にやってきた.

メコンデルタの各都市,ミト,カントー,クチなどサイゴン周辺都市の観光を相談.

Kazchari自身が病んでいても,旅は進んでいく.

続き ⇒ 旅の回顧録~1993年のヴェトナム(2)

Konica 現場監督

沢木耕太郎『一号線を北上せよ』を読んだ~そして1993年へ

2022/2/20 Sun

旅に復讐されるかも.

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このブログを初めた頃,旅の回顧録~1993年のカンボジアというテーマの連載(?)をしていた.

これは,1993年の1月から10月にかけて行った東南アジア旅の記録で,当時の日記を元にして書いた.
そのオリジナルは,今はなき「Nifty Serve」のミステリー小説スレッドにアップしていた文章.

当時のカンボジアは長らく続いた内戦が終了し,通常選挙がようやく行われるなどなかなかの混乱具合.
選管ボランティアの日本人青年が殺害されるなどの事件もあった.

国中あちこちに地雷が埋まっており,観光するのも命がけ.
夜間には銃声.
今思うに,よくふらふらと出歩いてたもんだ.

人類史上最大の愚行の一つ「カンボジア大虐殺」に関しては,この映画のアプローチがすごい.

消えた画 クメール・ルージュの真実

こうした世界の負の側面を目の当たりにするなど,20代にああした行きあたりばったりの旅をしたことは,今の人生に大いに役立っていると思う.
この後,結局長年の夢だった協力隊への参加も実現できたしな.

この『1993年のカンボジア』は国境を越えて,ヴェトナムに入国したところで終わっている.

もちろんその後も旅は続いた.

サイゴン(ホーチミン・シティ)から,バスや列車を乗り継いでハノイまで6週間かけて北上.
カンボジアほどのインパクトはなかったけど,これまたエキサイティングな経験だった.

Kazchariが初めて海外に渡ったのはいわゆる卒業旅行.
1989年のケニア-インドーネパール旅だった.
この時の期間は1ヶ月ほど.
全てが新鮮そして強烈だったが,所詮短すぎた.

そして就職.
その会社を辞め,帰国日を決めない無期限旅行を決意させたのは2冊の本がきっかけである.

一冊は蔵前仁一の『ゴーゴー・アジア』.

新ゴーゴー・アジア(上巻)

もちろん,前作の『ゴーゴー・インド』も読了済み.
蔵前の一連の著作のおかげで,世の中にはこんなに楽しい旅の仕方があるのだと知った.

もう一冊は,より人口に膾炙する名著,沢木耕太郎の『深夜特急』である.

深夜特急(1~6)合本版(新潮文庫)【増補新版】

いまさら解説しようがない.
この本のおかげで,何万,何十万の若者が旅立ってしまったことやら...
有名な話だが,第1便,第2便(文庫版では1~4巻)と第3便の間には,6年間の刊行ブランクがある.
東南アジアやらインドが含まれる1,2便の方が旅のネタには事欠かないはずなのだが,Kazchariは第3便のヨーロッパ編が一番おもしろかった.
作者自身の文章力の向上ゆえかな(なぜ上から?).

大沢たかおのTVドラマも話題になった(VHSで保存している).
松嶋菜々子の登場にはズっこけたが.

さて,沢木耕太郎である.
その最大の魅力は,もう沢木節としか言えない独特の格調高い文体にある.
特に,ボクシングというスポーツを,ここまで詩的に昇華させた作家はなかなかいないのでは?

その影響力は凄まじく,一時スポーツライターをやってた”五体不満足”な人も,その文体をマネしていた記憶がある.

沢木の著作はかなりの数を読んでいるが,今回図書館でたまたま手にとったのがこちら.

一号線を北上せよ~ヴェトナム街道編 (講談社文庫)

珍しく未読だった.
文庫版の表紙には「ヴェトナム街道編」と書かれているが,単行本にはそのような表記はない.
「一号線」「北上」と聞いて,すぐに「あっヴェトナムのことだ」とわかるのはパッカーのみであろう.

内容は沢木のプライベートと取材旅行記であるが,ヴェトナムだけでなく,「キャパのパリ」「フォアマンのアメリカ」「檀一雄のポルトガル」「アルペンスキーのアルプス」「酒場のマラガ」(Kazchari命名)も含まれた短編集である.
Kazchariはポルトガルとスペインも訪れたことがあるので,懐かしく,楽しく読ませてもらったが,やはり白眉はヴェトナム編の2本である.

奥付をみると,2000年あたりの旅のようだ.
Kazchariは1993年の訪問だったので,若干のズレがある.

一見して,旅のシステムがかなり整ったようだ.
当時のタイと同程度か.
沢木の旅からさらに20年近く経った今では,どうなっているのやら...
Wifiも当たり前やろうしな.
そういや,ここしばらく,ヴェトナムってかわいい小物だとかグルメやらで,女性にも人気の旅先だった.
新コロが全てを破壊したけど..

ここで思いついた.

『旅の回顧録~1993年のカンボジア』の続き,つまり『1993年のヴェトナム』をリライトしようと.
まぁ,30年近く前の旅行記に何の情報的価値もないが,しょせんブログなんて単なる個人の歴史.
SNSではないので,即時性とか気にするものでもない.

ただし,本書『一号線~』にこんな記述がある.

「旅は繰り返すものではないし,繰り返せるものでもない.それを知りながら旅をなぞろうとすると必ず手痛いしっぺ返しを受ける.旅に復讐される,といってもいい.」

実際に再訪するのでもなく,文章で追憶するのも同様なのだろうか?
当時の日記を読むと,どうしようもなく,あの頃(の自分)に帰りたくなることがある.
でも,同じ瞬間は,もう二度と起こり得ない.
全ては過去.もう取り戻せない.

そう,『ブレードランナー』のレプリカント,ロイの最後のセリフのような心境になる.

一方で,沢木はこうも書く.

「旅先で覚えたその痛切な思いは,決して消え去ることはない.私たちの体のどこかに眠っていて,必要な時に呼び覚まされることになるはずなのだ.」

いいなぁ.その通りだろう.
この文章だけでごはん3杯はいけそう.
『深夜特急』本編と比較すると,『一号線~』は”帰ってきた人向けの本”なのだろう.

とかなんとか色々それっぽいことを言ってますが,これもまた”終活”の一貫として,『旅の回顧録~1993年のヴェトナム』,近日スタート!
全く需要はないだろうけど,それでいいのだ.

以下,余談.

Kazchari家では『水曜どうでしょう』の何度目かの再放送を夕食時に視聴している.
ちょうど今放送中なのが「原付日本列島制覇」という回で,東京から高知までカブで向かうという企画.
2010年の放送なのだが,鎌倉付近を通過する際,大泉がカメラに向かって「いざ!鎌倉!」と吠えるシーンに震えた.
まるで,未来を予言したかのようなセリフ.

ご存知の通り『水どう』は2002年にレギュラー放送を終えるのだが,その最後の旅がカブによるベトナム縦断1800キロなのだ.
正に一号線を北上...ではなくハノイ発で南下する旅やけどな.

またしてもシンクロニシティ発動?

Kazchari的に,今ヴェトナムが熱い!