『新国立劇場バレエ団 くるみ割り人形』を鑑賞

2019/11/10

約30年ぶりに生のバレエ公演を鑑賞した.

バレエを習っている中学生の長女とその友達,それにKazchariの3人で札幌までバス移動.
ただの付き添いというわけではなく,元々クラシック音楽好き.
公演そのものが楽しみである.
思い起こされるのは数年前,急な体調不良のヨメさんの代わりに,娘と二人で行った札幌ドームのB’zライブ.
あれは辛かった.
何が良いのかさっぱりわからん.
周りが立ち上がって盛り上がる中,ずっと席に座っていた.
浮いてたなぁ...

保有CDは圧倒的にクラシック音楽が多い(300枚くらいはある).
20代の頃は,いわゆる名盤と言われるCDを買いまくっていた.
今では全てMP3に変換してiPodに入れている.
HD占有率ではアニソンについで多いはず(3位はレゲエか).

さて,そのクラシック音楽,一番好きな作曲家はブラームス.
特に『クラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115』はたまらん.
もうね,偏屈独身中年男が人生を嘆いて嘆いて最後には諦める...そんな曲.
私小説感たっぷり.
もちろん『交響曲第四番 ホ短調 作品98』も虚無感満載.
指揮者はカルロス・クライバーが良い.
もうこの世にいないけど.

モーツァルト&ブラームス:クラリネット五重奏曲

ブラームス:交響曲第4番

今日の演目は,ブラームスと同時代の作曲家チャイコフスキーの『くるみ割り人形』.
もちろんこの曲も大好きで,アンセルメ指揮のCDを聴き込んでおり,だいたいのフレーズは口ずさめる.
あっ,Kazchariは楽器の演奏できません.
楽譜も読めません.
ついでに音痴なので家族からは鼻歌禁止令が出ています.

チャイコフスキー:バレエ音楽「くるみ割り人形」作品71-全曲

旭川からの高速バスは昼前に札幌着.
引率している2人がバレエ用品専門店に行きたいとのことで,買い物の間,店内の簡易イスで待機.
完全にアウェー状態.
女性下着専門店に放置されたようで居心地悪いにも程がある.

昼食後,13:15開場に合わせ,札幌文化芸術劇場hitaru着.
地図はあるものの行き方および存在が非常にわかりにくい.
まず建物の名称が「札幌市民交流プラザ」,その中に「札幌文化芸術劇場」「札幌文化芸術交流センター」「札幌市図書・情報館」が同居している.
地下鉄の出入り口からして「hitaru」の案内掲示がどこにもない.
新しいから?

14:00開演.
チャイコフスキー・バレエの他の2作品『白鳥の湖』と『眠れる森の美女』に比べると『くるみ割り人形』は,演出・脚本の自由度が非常に高いらしい.
もちろん曲は固定だが,今回はクララ=金平糖の精バージョン.
物語の中では夢(クララの妄想)の中で,王子に合わせてクララが自分を成長させた姿のように思える(違うかも).

音楽評論家のように表現できないので,とりあえず...観に来て良かった.
久々のオケ生演奏は元より,選抜合唱団も素晴らしい.
肝心のバレエも,普段見ている娘のバレエ団の演技と比較すると,やはりプロの凄みを感じさせる(当然).
特にアラビアの踊りが印象に残ったなぁ.
遠心性収縮運動はごまかしが効かない.

そう,やはりKazchariの着目点は出演者の体型・筋肉にある.
アスリートのそれは実に美しい.
てっきりボクサーやビルダー同様,体脂肪率一桁台?とか思って調べてみると,一流のダンサーでも世界標準でBMI18,体脂肪率17%前後らしい.
あれ,そんなに低いわけでもないなぁ.
見た目と数値は違うということか.

ライブやスポーツ観戦,筋肉観察に必携.
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旅の回顧録~1993年のカンボジア(11)

アンコールの街,シムリアップを去る.

1993/3/23 Tue

朝,市場にてバタンバン行きのタクシーを探す.
なかなか見つけることができず「Sunrise Guest House」を出発した時にはAM8:00を過ぎていた.

今度のタクシーは運転手,大前田氏,Y氏,Kazchari,知らない現地人2人の6人乗りで往路時よりせまい.おまけに“ハズレ”のくるま.エンジン不調で途中に何度も止まる.

UNTACの白車両に次々と追い抜かれる.このままでは,いつバタンバンに着くのか予測がつかない.UNTACをヒッチすることまで考えた.

砂埃にまみれつつもPM1:00頃,ようやくバタンバン着.前回同様「23 TOLA HOTEL」に部屋をとる.

荷物を置いた後,数日前に家族写真を撮った雑貨屋に行く.シャッターが下りていた.
一人で街を散策する.カンボジア第2の都市といえど,あまりに寂しい街.新築のホテルの他は,同じような形の黄色い壁の家が並ぶ街.

市場にて,不味いぶっかっけメシを食べながら,ここ数日の体調不良の原因を考えてみる.もちろん無理なスケジュールが主因だろう.しかし,プノンペンはともかく地方に行くと,カンボジア料理が口と胃に合わなかったというのも理由の一つに違いない.世界に冠たる料理王国,タイ&ベトナムにはさまれた国なのに,なぜ?

準戦時下のこの国では,新鮮な食材があまり豊富でないからだろうか?
もともとこの辺りのメコン沿いの国々に「餓死」という単語は存在しないという話だが…何しろメニューの幅がせまい.早くプノンペンへ(本音を言うとタイへ!)戻りたい.

宿代ケチってUS$10の部屋に3人で寝る.ベッド2つをくっつけて.
エアコンなしの部屋,ムシ暑い夜.Y氏持参のCDプレーヤーからは香港ポップスが流れ続けている.(その12へ)

今年もよろしく雪道ライド

Mostly Cloudy, 1°C, Feels like -3°C, Humidity 89%, Wind 3m/s from S

アップが少々遅れたが,11/9のライド日記となる.
朝起きると,Zwift部屋からの眺めがこの様になっていた.
旭川はいきなり真冬に突入.

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初雪後の本格的な冬景色.思えば前日の金曜日は仕事で北見方面に出張していた.業務が終わり,現地を出発したのがPM7:00.旭川紋別自動車道,白滝付近で暴風雪に遭遇.除雪間に合わず,積雪は軽く5cmを越えていたように思う.さらには横殴り,正面からの雪でハイビームが反射して使えない.おまけにKazchariのくるまは軽のハスラー.蛇行するわ,後方からトラックやSUVに煽られるわで生きた心地せず.いやぁ,無事に帰れてよかった.「俺っ,生きてるっ!」

で,翌日は休日.天気も回復している.となればグラベルへGoである.
ウェアは冬用中装備.手袋で悩む.ハンドルカバーはまだ早いと判断.チャリの方は凍結を考えタイヤの空気圧を減らした(通常1.2Bar→0.7Barへ).
幹線道路の状態はこんな感じ.

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いつも通り南に向かい,空港周りを探索予定.途中で眺めのよさそうなあぜ道を見つけるとそちらにハンドルを向ける.遠くに離陸間近のJAL機が見える.

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空港脇の撮影スポットに入る.今日はバズーカカメラマン皆無.良い撮影日よりだと思うのだが.日差しも出てきて,15%超えの激坂を上って自撮り.ポージングがイマイチ.

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今度は下る.青い空,白い雪,黒い土,さらに黄色の枯れ木がアクセント.自撮り棒にて俯瞰撮影.

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雪を踏む.薄氷を踏む.

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落葉のもみじを見つける.赤と白のコントラスト.

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千代ヶ丘の踏切を押して渡る.くるまは通れない.

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帰路に就く.
お気に入りの河川敷へ.時折,川岸に降りる.どう考えても無謀なブロック敷.ファットだと安心,と言いつつも結局は水門に阻まれて,堤防に15kgを押し上げることになる.

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堤防を走る.一週間前との景色の違い,変化を楽しむ.この極端さが楽しい.

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コーヒータイム.この魔法瓶,ホンマ優秀.残念ながらボトルゲージに差してグラベルすると表面が傷だらけになってしまうのだが.

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PM1:00,今日も無事帰宅.例によって泥だらけで実に楽しい.自宅庭の雪はこんな感じ.また融けるかな.

OLYMPUS TG-5

弱虫ペダルは最新刊64巻からMTB編! 世間では色々と物議をかもしているようだが(2年目のIHの結果がアレだったので),Kazchariは楽しんでいます.特にこの巻はMTB解説編で勉強になる.コーナーでペダルを回せるとか(ビギナーなんでスイマセン).そやけど,ここにきて突然のMTB編,うがった見方をするなら業界の「MTBを流行らせよう戦略」を感じないでもない.ロードブームの夢をもう一度,とか.

弱虫ペダル(64) (少年チャンピオン・コミックス)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(10)

1993/3/22 Mon

本日も腹痛と頭痛で目が覚める.ここ数日,体調極めて悪し.大事に至らねばよいが…

寝ぼけた頭で過去のことをいろいろと思い出す.子供の頃のこと,学生生活,3年間の会社(というより沼津)での生活がなつかしい.そして…
頭蓋骨の裏側にへばりついた,これらの記憶に触れようともがく.刻の流れを痛覚としてとらえる.弱気になる.フリーになると規律が,ルーチンな生活には自由が恋しくなる.今はフリーの時期で不安.人には枠が必要か.

以前少し考えたこの後のカンボジア海岸旅だが,どうも大前田氏のアクの強すぎる性格についていけなくなってきている.Y氏も同様のことを考えているようだ.そもそも個人旅行者同志が長期間,団体で旅することに無理がある.
さて,どうしようか…

「Sunrise Guest House」の住人たちは日がな一日TV(香港映画?)を観てるか,床の掃除をしている.

御主人は Mr.キムという中国系の方である.もの静かな感じで諦念観漂う人.英語を話されるので,あの大虐殺の時代をどう過ごしたのか聞きたかった.でも,聞けなかった.聞いてはいけないのかもしれないと思った.

夜,Mr.キムは月明かりの下,一人,玄関でラジオを聴いている.耳をかたむけるとそれは日本語の放送だった.なぜだろう?

Mr.キムには20歳ぐらいの娘がいる.「へい,むわすたぁ~」というやたら低音の声でシンプルな英語を話す.そういえばプノンペンでも話題になってたなぁ,この娘…

また,この家には猫,それも子猫がいる.おかげで一日宿にいても,さほど退屈せずに済んだ.猫好きならわかるやんな?

Y氏がクメール文字の分析をしているのを横で眺めていたら,Kazchariも段々と興味がわいてきた.タイに戻ったら文字の表記と発音をきちんとやってみようと思う.

ちなみにKazchariの名前はクメール文字で,□□□□ □□□zu(注:□はクメール文字)となる.“zu”という発音は存在しないのだ.

このパズルに熱中していたおかげで,行きつけのレストランの閉店時間が過ぎてしまった.夜の町を歩いて,ようやく見つけた屋台には“ニラもち”しかなく,仕方なくそれを食う.味は悪くない.でも今の体調にはHeavyだ.(その11へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(9)

1993/3/21 Sun

AM5:30,起床.
微熱と頭痛が少し残るものの,昨日よりはずっと調子が良い.
クンツが飛行機でプノンペンに戻るので,空港まで彼をトランスポートする.
生死を共にした(?)ナイスガイであった.見た目老けてるけど.

その後,Y氏と大前田氏が見つけたという新ルートを通って,再びアンコールに行くことにした.
空港脇をさらに西に進み,草原の真ん中を突き抜ける砂地を爆走する(一昨日の出来事に全然懲りてない).

やがて,ゲリラが出てきても全然おかしくない雰囲気のジャングルに侵入.
サンダルに半パンというスタイルだったので,満足に“攻める”ことはできなかったが,実におもしろいオフロードコースである.
そして偉大なる日本の名車,カブに乾杯!
ホンマによく走る単車だ.

アンコール・トム,バイヨンの西門に到着.
ここは他の門と違い,ジャングルの中にツタがからんだ姿でそびえ立っている.
まるで,自分が最初の発見者になったかのような気分.

と,ここでトラブル発生.
昨日はいなかったという門番が今朝はいた.
小銃を持った政府軍の兵隊であった.
US$1をつかませて通してもらう.
なんだか悔しいぞ.

トム見学後,体調もそれほど悪くなかったので,アンコールのさらに北21kmにあるという遺跡「バンテンスレイ」へ行くことにする.
これまたスゴイというか,発展途上的というかの凸凹道.
雨でできた池がボコボコ存在する.
ダート好きの俺はまた,キャッキャと走り抜けるのであった.
途中,ロケットランチャーなどの重火器を構えてカブに乗る兵隊と何度もすれ違う.
遺跡まで1kmという地点で,Kazchariのカブがガス欠.
仕方なしにすぐそばの民家でペットボトル入りのガソリンを買う.
2リットルでUS$2! なんだってーっ!

ようやくたどり着いたバンテンスレイは掛け値なしに素晴らしい遺跡であった.
アンコールの他のどの遺跡よりも保存状態が良く,緻密な彫刻が見る者を圧倒する.

もちろんここも周囲は「DANGER MINES」の標識だらけ.入り口にはロケットランチャーを持った政府軍兵士が見張っており,「絶対に石道の外に出るな」と忠告された.

帰り道,アンコール遺跡全体を見渡せる山に登る.
おそらく2度はないだろうと思う風景を心に刻む.
今,自分は確かに存在している.

明日は休息日の予定.
少し離れた最後の遺跡「ローラス」も訪問.

疲れた.

しかしながら充実した一日であった.
各々の遺跡の素晴らしさを文章で表現するなんて器用なマネはでけんので今日の日記はここまで.

あぁ,また少し頭痛がしてきた…

『バイクパッキングBOOK』を読んだ

バイクパッキング BOOK 軽量バッグシステムが創る新しい自転車旅

軽量バッグシステムによる自転車旅の提案書である.
忘れかけていた何かを思い出させてくれる良書であった.
MTBによるグラベルツーリング(+テント泊)の話題が多く,まさにKazchariの旬の趣向に合致する.

自転車旅と言えば,頑丈だが重量級のクロモリ・チャリの前輪と後輪に,これまた頑丈なサイドラックと帆布バッグを4つ装着して,夏休みに真っ黒になりながら日本各地を旅する,というイメージが強い.

そしてチャリダーのメシの量は半端ない.

本書によると,昔に比べて何よりも装備の軽量・小型化が進んだ.
身軽になったことにより,未知なる場所へ踏み込むハードルがかなり下がった.
このブログで紹介してきたグラベルは基本,車も通れるダブルトラック,農業や林業用道路がほとんど.
著者の意見ではシングルトラック,つまり登山道や獣道のトレイルにこそ旅の醍醐味があるそうな.

Kazchariも元々はオートバイ野宿ライダー.最近,乗る機会がすっかり減ったものの,『HONDA XR250 BAJA』(1996年型)を未だに所有している.

思い起こせば1987年の夏,初の北海道ツーリングはなかなかの苦行であった.
当時はインターネットも,ノウハウを教えてくれる師匠も友人もいない.
せいぜい雑誌(『OUTRIDER』など)をむさぼり読んで装備を整えるぐらいしか事前準備できなかった.

若さは得てして楽観的思考を生む(準備万端にできるほど資金もない).
保温性能が低いわりにかさばる3シーズンシュラフと,雨風にめっぽう弱くデッドスペースだらけのダンロップの黄色い三角テント,EPIストーブとコッヘルのみがキャンプグッズ.
しかもバイクはレーサーレプリカポジションの『HONDA VFR400Z』.
何とかなるだろうと大阪の自宅を出発.

舞鶴からフェリーに乗って,小樽に上陸し北を目指すという定番パターン.
キャンプ最初の夜は背中が痛くて眠れない.
そう,銀マットなどの地面に対するクッション類は持っていなかったからだ.
さらにはライトもないので夜は真っ暗.8月と言えど,北海道の朝は寒くて目が覚めた.

それでも2週間の旅からの帰宅後はすっかり野宿ツーリングに目覚めた.
出会った旅人たちのなんと面白かったことか.
失敗経験からの反省や社会人になったことによる金銭的余裕から装備品も徐々にアップデート.
オフロードバイク『HONDA NX125』も買い足した.

大阪在住時には四国,九州方面.
沼津に住んでいた頃には伊豆半島,信州方面は元より,東北地方まで足を延ばすなど,ほぼ日本中をバイクで周った.

昨今は,スノーピークのアメニティドームを軽自動車(ハスラー)に積んで,家族4人で毎年8月に1泊×2回ほどするファミリーキャンパーである.
これが決してつまらないわけではないが,何かが足りない.

スノーピーク(snow peak) テント アメニティドーム (新品番)

自転車趣味が高じてからは,オートバイではなく,旅するチャリダーが目に付く.
正直に言おう.うらやましいのだ.

しかしながら,よくよく考えてみると,ここ数年は既にバイクパッキングに極めて近いことを既に実践していることに気づいた.
そう,これって600kmのブルベ装備とさほど変わらない.
サドルバッグ,トップチューブバッグ,フロントポーチは既に持っている.
ストーブなどの調理道具もある.軽量テントさえ買い足せば,いつでも旅立てる.

プロモンテ(PuroMonte) 超軽量山岳テント [日本国内生産品]

現在,年末から元旦にかけての,ファットくんによる年越し宗谷岬ツーリングを計画中.

本当に実行するのか?
予断を許さない状況である.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(8)

旅先での病気ほど不安なものは無ひ.

1993/3/20 Sat

昨夜は39℃の熱が出た.

幸い,この「Sunrise Guest House」には安宿にはめずらしく冷蔵庫がある.
薬を飲み,凍らせたミネラルウォーターのボトルを頭に押しつけ,懸命に熱を下げる.
体力をつけねばと思い,サンドイッチとバナナを腹に詰め込む.
明け方,ようやくこの日記が書けるまでには回復した.

今日は全く動けない.
カンボジアからの手紙を友人に出そう.

ここは地の果てカンボジア
照りつける太陽
ハエが飛ぶ飛ぶプノンペン
国中暴走 UNTAC
足の無い人うーじゃうじゃ
一雨来ればゴキブリ,ネズミがゾーロゾロ
飛行機ケチって列車に乗れば,屋根にしか座れない
人類の至宝アンコール,拝観料70ドル,払うが嫌さに抜け道行けば,“地雷危険”の標識あり
昨日は1ドル=2900リエル,それが本日5800リエル.
下手な両替バカをみる
こんな場所でも住めば都のカンボジア
私の旅はまだまだ続く

と,病明けのとち狂った頭で考えた文章を数名に送ることにした.
今,熱をはかると37℃.
マラリアではなかったようだ.

明日は再び,アンコール遺跡を見にいく予定である.
(その9へ)

旭川,初雪

OLYMPUS TG-5

旭川にとうとう雪が降った.
気象台によると例年より14日遅く,昨年より8日早いそうな.

今朝もファットくんで出勤.
昼食のため,いったん帰宅するも雨交じりのみぞれ状態.
職場に戻る際にはクルマに乗り換えた.

もう少しふわふわな雪になってほしい.
その方が濡れない.

根雪になるのはもう少し先.
ファットくんをスパイクタイヤに履き替えて,圧雪路,凍結路をガシガシ走りたい.

そして3月末までロードは冬眠となる.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(7)

カンボジアの通貨はリエル(R).
昨日はヤミでUS$1=2900Rだったのが,今日は5800R…

1993/3/19 Fri(続き)

穴の状態から推測するに,ごく最近爆発したのは明白である.

クンツは「俺はまだ21歳だ! 死にたくない!」と泣きそうな声を出している.

なぜかすっかりハイになっていたKazchariは「何言うてんねん!あとちょっとや! それに俺らは男やないか! Let’s Go!」とわけのわからないことを叫ぶ(不思議な事に興奮すると英語が流暢になる).

めちゃめちゃである.

この時,Kazchariの脳内では特撮オープニングのアレ,そう,猛スピードでバイクが通り過ぎた後に後方で爆炎があがる,あのシーンが再生されていたのは言うまでもない(んなアホな).

が,クンツ動かず.
やがてKazchariの興奮もだいぶ収まり,状況を冷静に考える余裕が出てきた.

「足1本とUS$70か…ちょっとなぁ…よし! クンツ,戻るで!」

クンツ,ホッとしたような表情.
二人してカブにまたがったまま,タイヤの跡をなぞりつつ後退する.
おっとその前に,穴とカブとKazchariを被写体に,クンツに写真撮影を頼む(前回の写真).
さぞかし“変なヤーパン”と思われたことだろう.

帰り道,UNTACの工事現場近くを通ると,敷地から小銃を持った兵隊が飛び出してきた.
一瞬「まさか,ポルポト…」と恐怖に駆られたが,水色帽子のUN兵であった.
呼び止められ,パスポートの提示を命じられたが,Kazchariのはベトナム大使館に預けたまま.
つまり,コピーしかもっていない.

で,少々もめたがなんとか信用してくれた.
話を聞くとただの工事現場ではなく,案の定,地雷処理班の駐屯地であった.
「この辺はマジで危ないから,舗装路以外は走ったらあかん」と注意を受けて解放.
ご迷惑をおかけ(したかも)申し訳ありません.

結局,強行突破に失敗した最初の料金所まで戻る.
渋々カネを払おうとすると,係員が料金リストを出してきた.
実は入場料US$70というのは遺跡全部を見学した際の値段.
何のことはない,一つだけならUS$13でよいのだ.
これなら全然たいした額ではない.
ましてや足1本とは比較にならない.
プノンペンで仕入れた情報って…口コミ旅あるあるやな.

ゲートをくぐり,ようやくアンコール・ワットとご対面.

刻すでにAM6:30!
苦労した甲斐のある荘厳な姿が観れて大満足であるが,曇天の中そびえ立つ寺院は思っていたより小さかった.

本堂に近づくにつれ,その傷み具合というか,すり減り具合がよくわかる.
かつてここに大勢の人が住んでいたとは想像しがたい.

先行の日本人2人と合流.
3時間あまりの冒険談を話す.
よく無事でいたもんだ.

が,実はこの時,病魔はすでにKazcahriのカラダを深く蝕んでおり,ガンガン頭痛はするわ,前後感覚がおかしくフラフラするわで,せっかく訪れたアンコールをじっくりと見学できる状態ではなかった.
全ては夢の中の出来事だった様.

一通り城壁のレリーフを見物した後,入場料を払うことになったKazchariとクンツに,大前田氏が屋台ラーメンとコーヒーをおごってくれた.

健康状態はますます悪化していくものの,せっかくだからとアンコール・トムにも向かう.
途中チケットのチェックゲートらしき物があったが,誰もいなかったので気にせず通過.

トムの壁面,“クメールの微笑”にもようやく対面することができた.
こちらの方が好みの造形.
気分はすっかり「地獄の黙示録」か「ボトムズ・クメン編」.
実に良い(体調以外は).

他の小さい遺跡群も,カブをとばしてざっと見学.

昼近くになり日差しが強くなってきた.
もう一人では立てないほど衰弱していたので,クンツに宿に戻ってくれるよう頼んだ.
それからは…
(その8へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(6)

AM3:30,起床.
ここ数日の無理な旅程がたたってか,ノドが痛く,頭痛,寒気がする.
しかし,ここまで来てアンコール・ワット見物をやめるわけにはいかない.

1993/3/19 Fri

いよいよアンコール・ワット見物に行く.
ツアー参加者であればワゴンで昼間にゆっくりと“安全に”見学できるのだが,バックパッカーにその様な贅沢は許されない.
できるだけ早朝に宿を出発し,料金所の係員が寝ている間にゲートを突破するのだ.
“足”はもちろん「愛知県警」の名前入りスーパーカブである.
昨日のうちに1日US$5でレンタルしておいた.

体調が不安なものの出発する.
カブは計4台.
Kazchariとクンツの日独コンビ,Y氏と大前田氏の日本人組,残りは同宿の2組の白人グループである.

体格差を考慮し,クンツが運転する.
まだ暗闇の中を4台のカブが遺跡に向けて疾走する.
地図に記載されている料金所があるという2本の道のうち,細い方に進路をとる.

料金所のゲートが見えてきた.
が,その瞬間,カブのエンジン音に目を覚ましたのか,料金所係員が数人外に飛び出し,上がっていたゲートを降ろそうとする.
先行していた日本人組と白人1組はゲートをすり抜けることができたが,われわれ日独コンビと,もう1つの白人組は係員に捕まってしまった.
ズルはできないものである(反省).

近寄ってきた係員が眠そうな顔で,入場料US$70(高い!)を払えと言う.
白人組は首を振ってカブをUターンさせた.
もう一ヶ所の料金所に向かうようだ.

われわれも道を引き返すことにしたが,料金所突破はあきらめ,プノンペンで会ったK氏に教えてもらった,料金所が存在しないという“裏ルート”を目指すことにした.

本道からワキ道に入る.
情報通り,UNTAC 車両が停車する工事現場(だと思っていた)を発見.
「この道や」と確信しさらに進む.
しばらく走ると舗装がとぎれてダートになった.

道はますます細くなる.
あぜ道のようだ.
左右は雑木林.
もちろん人家は見えない.
やや不安を感じつつも,さらに前進…だだっ広い野原に出た.

前方には森があり,その向こうには…アンコール・ワットの尖塔が見えるではないか!
その距離,残り約 300メートル!…と,しばらく進んだ後,急にクンツがカブをストップ.

「なんや?クンツ,どないした?」と尋ねると,クンツが硬直している.
ふと,周りの地面を見ると,黒焦げの草や粘土層むき出しの新しい穴がボコボコ開いている…通り過ぎてきた道,つまりカブの後方にもいくつか…ある.
さらに,進みべき前方には穴が無く,平らな地面が続いている.
この状況が意味するのはただ一つ…

われわれ日独コンビは “DANGER MINES ZONE”,つまり地雷原のまっただ中にいたのだ.
(その7へ)