旅の回顧録~1993年のカンボジア(19)

1993/Mar/31 Wed

プノンペンへ戻る.
宿をチェックアウト.最後にオーナーと記念撮影.

タクシーを3人でシェア.一人US$5,たった3時間でプノンペンに戻ることができた.往路の列車旅は何だったのか?

内戦での被害をあまり受けなかったのか,またはPKO効果で猛スピード復旧されたのか,4号線は整備された実に美しい道だった.

なじみの「INN House」に宿をとるつもりだったが,大前田氏の提案で別口をあたってみることにした.
「Capitol」の裏通りに良い宿を見つけた.なんと1ベットUS$2!
ここは正確にはホテルではない.門に「HOUSE for RENT」と書かれたボードを出している普通の民家である.3階建て住居のせまい階段を昇る.広い空間に蚊帳付きベッドが置いてある.“見た目は”清潔そうなシーツがかけてある.ベッドにノミ,ダニの類がいなければ出国予定日まで定住することにしよう.

「Capitol」で久々の昼食.たむろしている日本人旅行者に最近のプノンペンの様子を聞くが,大して変わりはないようである.

リーダー格の大前田氏が決断すれば,明日はタケオに行くことになりそうだが,派遣されている自衛隊も年度末の人員交代時期で何かと忙しいらしく,訪問してもロクに相手をしてもらえないのでは?との情報を得た.
民間人がノコノコと“遊び”に行っていいものかどうか…判断が難しいところである.
今度来るのは北海道の部隊らしい.となると,いきなり気温差40℃近いところに派遣されるわけで,PKOの是非はともかくご苦労さんという他はない.

いろんな旅人の話を聞けば聞くほど,次の訪問予定地ベトナムが楽しみになってきた.何よりメシがうまいそうだ.

夕食に奮発して屋台の豚足を食う.3000リエル.美味であった.

(3月度の会計)
タイ :  4450バーツ
ラオス:  3500キープ゚
カンボジア: 290 USドル(リエルは変動が激しかったため両替したドルで計算)

今月は3ヶ国にまたがったので計算がややこしい.1日平均で約¥1938か.使いすぎやな…(その20へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(18)

1993/Mar/30 Tue

わかっているものの,コンポンソムのこの宿は不便だ.
ビーチ,マーケットとも非常に遠い.今日も今日とて,朝,市場にて焼きそばを食い,宿のすぐ裏にある“ヤシの木10本レストラン(というより雑貨屋)”でサンドイッチ(ここのはなかなかイケル)と3本500リエルのバナナを食べただけで,残りの時間はずーっとテラスでゴロゴロ.アメリカ人の女性パッカーはいつの間にかチェックアウトしていなくなっていた.

急ぐ旅ではないのだけれど,不思議なことに罪悪感を覚える.

気がつけば,カンボジア入国時からずっと一緒のY氏から『Lonly Planet』の東南アジア編を借りて読む.欧米人向けの『地球の歩き方』である.もちろん英語.ガイドブックにしては写真の数が非常に少ないが,その分,安宿やアクセス方法などの情報量が半端ない.記事にもユーモアがある.曰く「朝,早起きする必要があるならモスクの隣に宿をとれ」など.

世界地図が好きだ.東南アジアの地図を何度も眺める.ベトナム,ラオス,タイそしてマレーシアを南下し,インドネシアはニューギニア島のイリアンジャヤまで…帰国予定日まで,まだ半年以上ある.それでもアジアは広い.急ぐ旅はしたくない.でも経験したい.可能な限り多くの土地と文化と人との出会いを.

夕方の短波ニュース(ラジオ日本)にて,プノンペンのレストランに手榴弾が投げ込まれて死者が2名出たことを知る.テロは4ヶ所でいずれもベトナム料理店らしい.近頃は選挙をひかえて,ポルポト派がベトナム人を殺しまくっている.果たしてこのまま無事に出国することができるだろうか?

旅の回顧録~1993年のカンボジア(17)

1993/3/29 Mon

コンポンソムはかつて,シアヌークビルと呼ばれていた.

人に対して何か良いことをすると,それを神様が毎回チェックしていて,その分だけ楽しい人生を与えてくれる…心のどこかではそうであることを望んでいる.これが自分の道徳観,倫理観の正体.単純単純.

周期的に訪れる鼻炎のおかげでくしゃみが止まらない.時期的に花粉症なのだろうか?

その様な状況ではあるが,コンポンソムに来た本来の目的である「ピーチで泳ぐ」をようやく完遂することができた.

宿を出て海を目指す.しばらく荒涼とした大地をさまよう.まるでヨーロッパの芸術映画のごとき風景が広がる.刑務所風建物の壁沿いを通過し,たどり着いたビーチは遠浅の美しい白浜であった.
ホテルらしき建物もあるが,我々以外に人影はない.全くない.

持参した競泳用ゴーグルをつけて潜る.魚はほとんどおらず,シュノーケリングには不向きであったが,久々の海水浴に満足.シャワー生活が続いた後の湯船みたいなものである.曇天の下,静かな波間をふわふわと漂う.
“リゾート”というわけにはいかなかったが,なんとなく哲学している空間だった.

3時間ほどビーチで過ごした後,市場へ.途中,駐車場付きのバンガローが立ち並ぶ通りに出る.そのいくつかにUNTACのランドクルーザーが停車していた.ネオン付きのけばけばしい看板には「大香港旅社」と描かれていた.用途はおおよそ想像がつく.

市場の食堂のテーブルは真っ黒だった.そう,ハエテーブルと化していた.カンボジアにはハエが非常に多い.慣れというのは恐ろしいもので,その様な場所でも食事が平気になった.適当に選んだおかずをのせたぶっかけメシを食う.

宿に戻ってテラスで読書.たまたま読んでいるのが『ガリバー旅行記』.馬人国,フウイヌム編が実におもしろい.全ての人間は唾棄すべき畜生,ヤフーなのだ.昨日読んだ巨人国の食事場面を思い出した.先ほどのハエテーブルと重ね合わせると…ウッぷ.(その18へ)

『GoPro ダイブハウジング』を買った

2019/11/21 Thu

いよいよ来週末から,インドネシアはラジャ・アンパットへのダイビング旅.
現在,旅の準備中.

今回のラジャ旅はクルーズ船で重器材レンタル無料.年に1度くらいしか使われないMy器材より,よっぽど信頼できる.そして荷物が減るのがありがたい.

今回に限らず最近のダイビングでは,水中にカメラを3台持ち込んでいる.

【1台目】
メイン機材は,『OLYMPUS OM-D E-M1』に『45m防水プロテクタ PT-EP11』,『防水レンズポート PPO-EP02』,『M.ZUIKO DIGITAL ED 8mm F1.8 Fisheye PRO』もしくは『M.ZUIKO DIGITAL ED 60mm F2.8 Macro』.これに『INON D2000』の2灯体制.状況に応じて各種INONライトを装着.
重てぇ.水中では浮力でやや軽くなるとは言え,フルサイズの人,よく持てるなぁ...

OLYMPUS TG-4

MarkII用のプロテクタは高くて買えないし,これでも十分通用する.

【2台目】
みんな大好き『OLYMPUS TG-5』+『プロテクタ PT-058』.OM-Dがワイド装備の時はマクロ用に,マクロの時はワイド用に.
『TG-3』の頃から継続買い替え購入.コンデジならではの利便性から,陸でも大活躍.現状,最も多用している機種.当ブログのチャリ写真はほぼこれ.全天候対応,超絶マクロ,多彩なコンバージョンレンズ,それになんといっても壊れないのが良い(いつの間にか電池開閉ブタの爪が折れてたけど).ダイビングでは万が一の浸水事故でも本体+データが無事なのが良い,と安心してたらなぜか毎回浸水する.カメラは無事でも浸水するとレンズが曇るのです.今回はOリングを新品にする予定.

OLYMPUS TG-5用 防水プロテクター PT-058

すっかりプレミア化してるなぁ.今から買うなら『TG-6+PT-059』の組合せの方が良い.性能はあまり変わらない.

【3台目】
オリ渾身のアクションカメラ(だったはずの)『OLYMPUS TG-Tracker』は動画担当.セルフィをつけることで自撮りはもちろんのこと,岩の隙間の撮影やウツボのドアップなどが撮れる.打倒GoProのはずが,見事に1代限りでシリーズ消滅っぽい.
画質良好・超広角・耐衝撃と性能はいいのになぁ.水中WBも実装されていてフィルター不要で青被りしません.デザインもかっこいい.
弱点は重いこと.GoProの倍くらいあるかも.さらにケチがついたのはハウジングなしで30m防水のはずが,水圧による液晶死亡事故が多発したこと(メーカーからの公式発表はない).幸いKazchariは無事だったが,怖くて水中使用は遠慮したくなる.現在,あえなくディスコンとなり,値段も一時2万円ほどになった.
今でも一応買えます.陸上撮影中心ならおすすめ.

OLYMPUS アクションカメラ STYLUS TG-Tracker グリーン 防水性能30m 耐衝撃2.1m 耐荷重100kgf 防塵 耐低温-10℃

で,今回は『TG-Tracker』の代わりに手持ちの『GoPro HERO6』を持ち込むことにした.純正ハウジングがAmazonで売り切れだったのでYahoo shopping経由Joshinで購入.定価かな.

GoPro ダイブハウジング(HERO7 Black / HERO6 Black / HERO5 Black)ブラック Super Suit AADIV-001

昨夜届いたので開封の儀.

OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5

Gopro本体のレンズカバーが固い.爪折れそう.なんとか外して装着.

OLYMPUS TG-5
OLYMPUS TG-5

さらにAmazonにてレンズフィルターと吸湿剤を購入.はたして使えるか?

【Taisioner】GoPro HERO7/6/5専用 外線透過フィルター 三つタイプ レンズフィルターキット 水中撮影セット 3個入り

水中撮影の曇り止めシート 24枚入り再使用可能な水分吸収ストリップ

Kazcahriはプロではありません.ただのカメラ沼で溺れている素人です.水中写真はダメです.まともな人は足を踏み入れてはなりませぬ.毎回,この重装備に我ながらアホやなぁと思いつつも,こんな絵が撮れるからやめられない...

OLYMPUS OM-D E-M5 / ZUIKO DIGITAL ED 8mm F3.5 Fisheye
OLYMPUS OM-D E-M5 / M.ZUIKO ED 60mm F2.8 Macro

ラジャ旅の回顧録は帰国後にアップ予定.

というわけでバリバリのオリユーザなのですが,ここに来て嫌な噂が...

オリンパスCEOが「カメラ事業は売却しない」という発言を撤回

えーっ!

旅の回顧録~1993年のカンボジア(16)

1993/3/28 Sun

Kazchariは実のところ,長期旅行向きの性格をしていないのかもしれない.
会社での生活や日本でのバイクツーリングが思い出されて仕方がない.誰でもそうなのだろうか? 長い旅に出て,これまでの26年間の人生を客観的に見つめる余裕ができたのかもしれない.

この名もない宿は木造2階建て.高床式構造に近く,1階はほぼ物置になっているようだ.階段を昇ると,張り出したテラスがある.両開きの扉があり,そこを開けた部屋の奥にベッドがいくつか並んでいる.ビーチ沿いの貸別荘という雰囲気である.

昨日の強行軍の疲れからか,夜中に一度トイレに起きた以外は熟睡できた.
首都よりもシムリアップよりも,夜は格段に涼しく,静かだ.

アジア的ペースが身についてきたためか,あわててビーチに出かける気もおきない.
午前中に市場にて両替とメシを済ませた後は,宿のテラスで河部利夫著『東南アジアの歴史』を読んでのんびりと過ごす.すぐ目の前が海であったなら何も言うことはないのだが…

カンボジアを始め,途上国には大人,子供を問わず物乞いがたくさんいる.旅行者間では,そういった方たちに「施しをするかどうか」がよく話題になる.

Kazchariはあまり施しをしない方だと思う.
日本にいる時,特に大学時代に大手新聞社の編集部でバイトをしていた頃には,飢えた人,虐げられた人,不幸な人たちを勝手に想像し作り上げ,いたたまれなくなることもあった.

結果,途上国の子供たちの里親制度,フォスターペアレントに申し込むこともあった.里親と言ってもその子との直接交流はなく,居住する村全体に寄付をする形式にはなっていた(月々5千円).
人生初の海外旅行がケニアだったのは,西アフリカのトーゴに住むその子,ザカール君に会いにいくつもりだったからだ.さすがに海外初心者による西アフリカ個人旅行はハードルは高すぎた.航空機の手配,ヴィザの取得…何より西アフリカなんてガイドブックすら皆無.結局,ケニアで挫折.訪問するには至らなかった.

その後,インドやネパール,今回のような東南アジアの旅を経験し,現実の彼らには嫌悪感を抱いてしまう自分に気づくことになる.
ギラギラした目で,フケだらけの髪の毛で,真っ黒な手のひらで,障害のある幼子を抱いたままで,足がなくスケボーに乗ったままで追いかけてくる彼らに,ほとんどの場合,見たくないものを見せられたという気になる.恐怖だ.
だが,彼らが去った後,良心らしきもの(?)が抵抗を示し,自己嫌悪に陥ってしまう.

Y氏は“地雷によって足をなくした人”には「やる」と決めているらしい.自分で一定の基準を決めておかないと,目前に突き出された手を見る度に悩むことになる.

読書に飽きると,市場へ.ここコンポンソムもまた,他の地方都市同様,食物に乏しい所であった.タイの屋台メシが懐かしい.パッタイが食べたい.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(15)

カンボジアでリゾート?

1993/3/27 Sat

AM4:30,起床.
隣のベッドの日本人に,タケオ情報を聞きつつ荷造りをする. 
便意に襲われ,トイレにあたふたと駆け込む.久々の快便であった.腸の機能は回復しつつあるようだ.

「Inn house」をチェックアウトし,もう2度と利用することはあるまいと思っていたプノンペン駅にY氏,大前田氏と3人で向かう.そしてコンポンソム行の列車(今回はショベルカー運搬車!)に乗り込む.

AM7:00,出発.
いつもながらスタート時は心地よいカンボジア鉄道の旅.やがて南部方面へ線路が分岐する.しばらく進むと永野護がデザインしたかのような純白で繊細な寺院がジャングルの中にそびえていた.実に美しい.

やはり暑さはやってくる.ショベルの中に身を隠すも焼け石に水.あまりの暑さに意識が朦朧としてきた.

途中で何度も列車の連結,切り離し作業が行われる.このため到着時刻がどんどん遅れていく…それにしてもやなぁ,駅の切符売り場のおっさんは昼の2時には着くと言うてたで,なんでや!

Kazchari達の乗っていた運搬車両もとうとう切り離された.もはや扉の閉じた貨物車しか残っていない.屋根にも上れず途方にくれていると,機関士が声をかけてくれ,運転席に乗せてもらうことができた.

身体が疲れきっていたので,質問などに生返事していたにも関わらず,弁当やお茶をくれ,しまいにはコンポンソム駅の職員用宿舎に泊まれと言ってくれた.感謝感謝.クメール人は誠に親切である.

PM7:30,ようやくコンポンソム着.

機関士に別れを告げ,群がるバイクタクシーを振り払い,Y氏がドイツ人から聞いたという安ホテルを探して2キロ程海岸沿いを歩く.

キーポイントとなるレストランを発見.なんでも,ここの主人が空き家をゲストに開放しているらしい.そこでタイ製インスタントラーメンの夕食をとる.TVでは懐かしの『Take On Me』のMTVが流れていた.何か意味深.

ゲストハウスまでくるまで送ってもらう.一泊US$5のベッドにようやく落ち着く.
この宿,電気はあるが水道はない.外の大甕にたまった雨水でカラダを洗うシステム.一人旅のアメリカ人女性が,先客として滞在していた.(その16へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(14)

1993/3/26 Fri

朝,日本大使館へ.
昨日増ページを頼んでおいたパスポート(*1)を取りに行く.
なんと15000リエルであった.日本円で350円ほど.2000円程度かかると聞いていたけれど,実際はその国の公定レート(*2)に合わせているようだ.

道端の屋台にてボリューム過多のサンドイッチ朝食(*3).はさんであるパパイヤサラダ(*4)にはアリがたくさん混じっている.これでタンパク質補給も問題なし.

「Capitol」のレストランで旅行者と話したり,洗濯(*5),読書(*6)をして一日を過ごす.

作家を目指しているというY氏の日本語文法論(*7)にいちゃもんをつける.Kazcahriがまるで「わかってないヤツ」のように言われたのでムカついたのだ.どうでもいいことなのだが,あまりにヒマ過ぎてストレスがたまっているのだろうか?

そこへラオスのヴィエンチャンから飛んできた日本人夫婦(*8)登場.ラオスでは,なんとジャール平原(*9)に行ってきたそうな.

明日のコンポン・ソム(*10)行きは検討の結果,またもや列車で行くことになりそうである.雨が降らなければよいのだが.

「Inn House」に戻ってベッドに寝そべっていると,知り合ったばかりの日本人旅行者にプノンペンの売春街「70番」に行かないかと誘われる(*11).
もちろん断る.さっぱりわからん.倫理的うんぬんより,病気,強盗,拉致などの恐怖感が先行する.

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*1:このパスポートはその後盗まれてしまい,ウィーンで発見されることになる.中国系犯罪者が使っていたらしい.
*2:レートはいつもクセモノ.よく知らないと大損する.例えば94年当時,ミャンマーでは公定:US$1=6チャットだが,闇:120チャットだった.
*3:店によって大きさ,味に違いがある.パンが異常に固い点は共通.
*4:タイでは「ソムタム」として有名.うまいことはうまいのだが,沢ガニ入りの時もあり,寄生虫がやや心配.
*5:バケツに洗剤を入れ,汚れ物を2~3時間つけておく.その後2回ほどすすいで干す.水不足の国だと宿の主人に怒られたりする.外干しだと乾きは速いが,扇風機による強制乾燥だとさらに速い.
*6:安宿がかたまる地域では,たいてい古本屋がある.日本語の本では,軽く読めるミステリ系が多い.割と高い.読んだ後は半額で引き取ってくれるところもある.
*7:旅に出ると誰もが評論家になる.ただし長期旅行者にはアクが強い人物が多いので,論争になると収拾がつかなくなることも.
*8:夫婦や恋人で貧乏旅行している人は意外に多い.話を聞くとかなり大変らしい.何しろ互いに気をつかうそうな.
*9:93年当時,ラオスは国内の自由旅行をほとんど認めていなかった.ただしお金を払ってのツアー参加ならOK.古都ルアンプラバン・ツアーがメジャーだが,ジャール平原も興味深い.謎の巨大石壺がゴロゴロ転がってるミステリーゾーンである.
*10:別名シアヌーク・ビル.フランス人が開発したリゾート地.
*11:US$5~だそうな.日本人旅行者に人気の娘がいて,「Capitol」でも話題になっていた.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(13)

1993/3/25 Thu

AM7:00から8:00までをまどろみの中で過ごす.

起床後,我が愛しの赤いパスポートを取りにベトナム大使館まで歩く.ついに手に入れたベトナムヴィザには入国可能ポイントが3ヶ所も書いてあった.

屋台でサンドイッチを買い,「Capitol」 のレストランでアイスコーヒーを頼む.うまい.夢見ていた朝食である.

そこへ大前田氏登場.海岸行きを断って,明後日ベトナムに抜けます…と言うつもりが,あの人の前に出るとなぜか不思議な力が働いて(途中で自衛隊駐留地のタケオにも寄るという話が効いたか?),海岸行きが決定.カンボジアヴィザの再々延長をすることになってしまった.

バイクタクシーをつかまえてイミグレーションに行ってもらおうとするが,ホンマに運ちゃん,プノンペンの地理がわかっていない.まぁ,現地民や普通の観光客がそうそう行くところではないのだが…散々寄り道された挙句,AM10:40,ギリギリでヴィザ申請に間に合った.

「Inn House」に戻った後,大前田氏と銀行経由で郵便局へ.タイ資本の銀行にて,T/C US$300をキャッシュに換えた(US$294 GET.手数料高い).
郵便局では3人に絵はがきを発送。全部で1300Rであった.

帰り道.中央市場にて「中華風ぶっかけメシ」を食う.やはり地方よりプノンペンの方がうまい.ついでにガラスケースに札束を並べた青空両替所にて,おばちゃんとレートの交渉.明るい「闇チェン」である.US$10が55000リエルになり,バッグが札束だらけになった(インフレ途上国あるある).

「Capitol」のレストランはすっかり旅行者のたまり場となっている.
有益な情報,ウソの情報,ヤバイ情報,何でも飛び交っている.退屈はしない.

夕食後も居座り続けてだべっていると,突然銃声が響いた.すぐ裏の路地らしい.野次馬根性で見に行くと,黒人のUN兵が拳銃を空に向けて構えていた.一目で酔っているとわかる.現地住民が取り囲み,彼をなだめていた.

旅が長くなると忘れがちになる.ここはけっして安全な場所ではない.(その14へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(12)

あの列車に再び乗る.

1993/3/24 Wed

AM5:00,起床.まだ真っ暗なバタンバンの街を駅に向かう.
例の商店に再訪できなかったのが悔やまれる.

切符を買って,どこに乗り込むかを検討.今度の列車には客車が一台も連結されていなかった…

結局,UNTAC車両の運搬貨車に“座る”ことにした.積んであるランドクルーザー,どこかで事故ったのか,もしくは地雷を踏んだのか,前部がクラッシュしていた.

途中の襲撃,強奪を恐れてか,武装したフランス人UN兵が一名,護衛に付いている.「ここに乗ってもいいか?」と尋ねるとOKという返事.一方で現地の人間の乗り込みは拒否していた.

AM7:00,発車.前回より速度が上がったような気がする.各駅での停車時間も短い.これは意外に早くプノンペンに着くかも…と楽観したのが甘かった.

昼に近づくにつれ,気温も急上昇.日差しもきつくなる.Tシャツ泥々,肌ベタベタ.車両運搬車なので,身を隠すスペースは何もない.まさに灼熱地獄.さっきのUN兵に,ランクルの運転席に入らせてくれと頼んだが,許してくれなかった.
帽子,タオルで日差しを防御.座ってる鉄板ももちろん暑い.水をガブ飲みしつつ,タオルをひいて横になりまどろむ.

やがて腹具合がおかしくなる.Big-oneの欲求である.列車が一時停車したのを見計らって貨車を飛び降り,草むらに飛び込もうとすると,UN兵が「NO!」と叫ぶ.彼が指す方向には,しっかりと,あの赤い「DANGER MINE」標識が乱立していた…

仕方なく貨車の上で顔面蒼白,冷や汗タラタラでさらに我慢す.こうなったら最後の手段である.2台並んだランクルの間にしゃがみこんで,ビニール袋のなかにする…ホッと一息ついた頃,人混みの駅に列車が入っていった.

PM3:00を過ぎるとさすがに過ごしやすくなる.やがて日が暮れた.

遠くに見える“大都市”プノンペンの明かり.さぁ,もうすぐだと思った途端,いきなり大砲が3発鳴って急停車.襲撃か!と思いきや,機関部の故障であった.

待つこと2時間,ようやく発車.プノンペン着はPM9:00であった.

大前田氏,Y氏,Kazchariの3人は「Capitol」目指して大通りを歩く.疲労のため全員一言もしゃべらない.
そこへカンボジア人の警官が3人寄ってきて,パスポートを見せろだの,荷物検査をさせろだのと,たわけたことをぬかしやがる.どうせ賄賂目的.ただでさえ空腹でイラだっている日本人3人組は,ムカムカして逆にくってかかり,要求は無視してその場を立ち去るのであった.

「Capitol」が満室だったので,近くの安宿「Inn House」のドミ(US$5)に落ち着く.鏡に映った自分の姿を見て,なぜ警官に職質されたのかがわかった.(その13へ)

旅の回顧録~1993年のカンボジア(11)

アンコールの街,シムリアップを去る.

1993/3/23 Tue

朝,市場にてバタンバン行きのタクシーを探す.
なかなか見つけることができず「Sunrise Guest House」を出発した時にはAM8:00を過ぎていた.

今度のタクシーは運転手,大前田氏,Y氏,Kazchari,知らない現地人2人の6人乗りで往路時よりせまい.おまけに“ハズレ”のくるま.エンジン不調で途中に何度も止まる.

UNTACの白車両に次々と追い抜かれる.このままでは,いつバタンバンに着くのか予測がつかない.UNTACをヒッチすることまで考えた.

砂埃にまみれつつもPM1:00頃,ようやくバタンバン着.前回同様「23 TOLA HOTEL」に部屋をとる.

荷物を置いた後,数日前に家族写真を撮った雑貨屋に行く.シャッターが下りていた.
一人で街を散策する.カンボジア第2の都市といえど,あまりに寂しい街.新築のホテルの他は,同じような形の黄色い壁の家が並ぶ街.

市場にて,不味いぶっかっけメシを食べながら,ここ数日の体調不良の原因を考えてみる.もちろん無理なスケジュールが主因だろう.しかし,プノンペンはともかく地方に行くと,カンボジア料理が口と胃に合わなかったというのも理由の一つに違いない.世界に冠たる料理王国,タイ&ベトナムにはさまれた国なのに,なぜ?

準戦時下のこの国では,新鮮な食材があまり豊富でないからだろうか?
もともとこの辺りのメコン沿いの国々に「餓死」という単語は存在しないという話だが…何しろメニューの幅がせまい.早くプノンペンへ(本音を言うとタイへ!)戻りたい.

宿代ケチってUS$10の部屋に3人で寝る.ベッド2つをくっつけて.
エアコンなしの部屋,ムシ暑い夜.Y氏持参のCDプレーヤーからは香港ポップスが流れ続けている.(その12へ)