外食でのエピソード4選

2020/12/5 Sat

よけいなお世話.

【第1話】

チャリのロングライド時の昼食はコンビニで済ませることが多い.
服装がアレ,感染予防,ぼっち,安上がり,盗難防止などが理由.

それでも,時間や場所の条件が合えば,ごくたまに雰囲気のよいカフェに入る.
こうした店は混んでいることが多い.
特に土日はなおさら.

その日はたまたま空いていて,無事に席を確保し料理をオーダーした.
しばらくすると,40代とおぼしき二人組の女性がKazchariの隣席に座った.
この二人,店に入るや否や,

「わぁ~なんて素敵なお店ぇ」
「このお席もいいわぁ」
「こんなところで食事できる,私たちって幸せねぇ」

と,大声かつ度が過ぎるファンタジーな賞賛.

店員さんも「ありがとうございます」と笑顔(当たり前).
しかし,この2人,

「ランチ2つお願いしま~す」

店員さん「すいません.土曜日はランチやってないんです.こちらからお選びください」

「えー!ランチないのぉ? じゃあ帰るわねぇ またねぇ」

と退店.
席には水の入ったコップが2つ残されていた.

【第2話】

別の店.
Kazchariは食事中.
旅行中と思われる高齢女性3人,男性1人のグループが隣席に座った.
完全に偏見だが,高齢者はメニュー選びに時間がかかる.

「ごはんが多くて食べきれないかもぉ」
「最近血圧が高くて,お肉ダメなのぉ(そして,互いの不健康自慢話へ移行)」
「(メニューにない)お汁粉ないかなぁ」

特に最後のお汁粉,あろうことかマスターに作れないかどうか頼むという暴挙.
幸い,マスターが温厚な方で,作れない理由,メニューにしていない理由を懇切丁寧に説明.
できた人やなぁ.

Kazchariやったらキレるな.
馴染みの居酒屋とちゃうで.

【第3話】

とあるラーメン屋でお昼.
狭い店で,カウンター席しか空いていなかったが,ぼっちなので問題なし.
隣には女子高校生らしき2名が座り,ずっとスマホをいじっている.

店は料理人とホール係の2名体制.
Kazchariの後も客がぞくぞくと入店.
数人が入り口付近で待ち状態.

ようやくオーダーを告げてしばし待つ.
先に隣の女子高生らにラーメンが置かれる.
その際のホール係との会話を聞いていると,どうやらこの2人はこの店の身内(子供か孫)であることが判明.
その間にも客がぞくぞくとやって来る.
なのに,この二人,全く意に介せず,スマホいじりながらのんびりと食事.

母だか祖母だかが走り回っているのにこの態度.
信じられん.
食べ終わると,自分たちで鉢を“奥の部屋まで”運び,そのまま出てこない.

むかっ.
最初から奥で食え! そして家族やったら手伝え!
つーか,親の教育方針に疑問.
ダメ押しで...ラーメンもおいしくなかった.

【第4話】

知り合いから回って来たチラシ.
Barを経営している別の知人が,新コロのせいで経営不振.
初の試みとして,肉料理中心の西洋風おせちを販売することにしたとのこと.
税込み10800円.
さらにはお店で使える2000円クーポン付き.

「ほほぉ,写真で見る限り,むっちゃうまそうやな.10000円は少々贅沢やけど,こういう時は助け合やしな.2000円のクーポンで,別の日にも子供連れて食べにいくか.どれどれ」とお店のサイトを確認したところ,見事に全席喫煙可の文字が.

こらあかんわ.
もちろん,条例上は問題ないかもしれんし,Barという素性からすると喫煙可なのはわからんでもない.
しかし,子供連れは元より,この新コロ時に感染リスクを高めるとされる毒ケムラーの巣窟にでかけるのは絶対無理.

つーことで,そういう環境下で作られるであろう料理に期待できないので,おせちもパス.

以上,おせっかいな感想でした.

旅の回顧録~1993年のカンボジア(1)

日本を出国して,すでに2ヶ月が過ぎていた.

1993/3/14 Sun

AM6:00-バンコク.
まだ暗闇のカオサン通りを白人の酔っぱらいが闊歩していた.
旅行代理店前から空港行きバス出発.
AM7:00過ぎにドン・ムアン空港着.
空港内レストランでバカ高の朝食をとり,残金をドルに両替.
カンボジアでは少額のドル紙幣が必携なのだ.
シャム・カンプチア航空にチェックインして,出発を待つ.
旅客機は定刻より15分だけ遅れて離陸した.

エビ入りゼリーの機内食はなかなかイケる.
ただしスチューワデスは無愛想.
せっかく覚えたクメール語の挨拶をしてもニコリともしない.
もっとも,インドシナ半島の各言語は発音が非常に難しく,一度で通じたことはほとんどないが...
わずか55分のフライトでキリングフィールド・プノンペンに到着.
バンコク同様,この国の首都も暑い.

空港には白い機体に黒で「UN」と描かれたヘリコプターとランクルが数台並んでいた.
イミグレーションにはPKO 警察の日本人がいた.
「学生さん?」「大学どこ?」「一人?」「何にしにきたの?」「どこに泊まるの?」
この人、ヒマなのだろうか?
カンボジアで職質をしてどうする.
もっともこの時期に,この国を旅行するヤツは怪しいと思われても仕方がない.

US$20を払い,7days 有効のヴィザを買う.
表記がクメール語ではなく英語なのが残念である.
空港施設を出るとタクシーとバイク(カブ)の群れ.
「Where do you go ?」 の嵐の中,バイクタクシーの運ちゃんをつかまえて,中心街への値段交渉に入る.
最初US$10だったのが,前情報通りUS$1 になった.

泊まる宿は決めてあった.
その筋では有名な「Capitol Hotel」である.
バイタクの運ちゃんも場所を知っていた.
いつもそうだが,新しい国での初日は本当にワクワクする.
空路入国では人も建物もガラッと変化する.
陸路入国ではじわじわと変化する.
両方ともおもしろい.
特にプノンペンは停戦まもない特殊な街.
同じような喧噪でも,他のアジアの街とは空気が異なっている.

「Capitol」のドミトリーはUS$4だった.
一泊US$10は覚悟していただけに単純にうれしい.
荷物を置いて部屋の外へ.
Capitolホテルの一階は中華料理レストランになっている.
いや,レストラン業だけではなく,両替、周辺国のヴィザの手配,レンタルバイク/サイクル,ガイド,観光案内など,なんでもやっている.
ざっと店内を見渡すと日本人がいた.
軽く会釈して早速情報収集開始.

彼,K氏はすでにアンコール・ワットにも行っていて,料金所を通らずに遺跡に行く道やら,バタンバン,シェムリアプの安ホテル情報を聞き出す.
また,K氏はなんとベトナムのハノイ大学に留学中であった.
カンボジアの後はベトナム行きを予定していたので,貴重な情報を得ることができた.
そこへ現れたもう一人の日本人Y氏と3人で市内散策.
やたらにあるベトナム料理店の一軒で寄せ鍋を食い,アンコール・ビアを飲む.
しめて一人9000R(リエル,US$1≒2500R).
初日から贅沢している(どこが?).
明日からは少し節約要.

その2に続く ⇒ 旅の回顧録~1993年のカンボジア(2)